スポンサーサイト

-----,--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

動きと空間 自然に動くということ

06-09,2012

今回は勝手な思いつきで、また内容も抽象的かもしれんので気軽に見てください。
あくまで思いつきなので参考程度に見てください。ちょっと言葉にする練習をしてみたくなりました。
今回は専門的かつ適当に書いているのでわかりにくかったらスルーしてください。


私たちは動く時、常に空間の中で動く。
もっと突っ込んでいうと、自分の動ける空間を知っているから動く。
それも無意識的にその空間を使うことができる。

つまり空間を知覚すれば、無意識的に動きは自然に発生する。
この空間というのは体の中の空間もあり、体の外側の空間もだ。
(たぶんのこの内側、外側の空間の理解はキネステやっていればわかると思います)

自分を認識している時、常にどのような空間の中に自分は存在してるのかということを把握している。
もし自分の周囲がどのような空間かわからない場合あわてて周囲を動き探索するだろう。

そう、自分の動きと周囲の空間(また自分の中の空間も含めて)は常に密接に関係している。
無意識的な動きをしている時でも、また無意識的にそこに動ける空間があるから動けるということを脳は理解しているように思える。

無理に動こうとしても、自分が動ける空間に気づかなければ動くことはできない。
つまり動きをより引き出すためには、空間を知覚することが大切だ。

多くの人は同じ空間を使い、そして習慣化した動きを限られた空間の中で行っている。
自分がこの他に使える空間があるなどイメージすることができない。

しかし、空間がより使えることを知覚すると、自然に動きが起こる。

もちろん動きと空間は相互的だ。動く事で空間をより認識することができる。
ただ無理に動かされてても、雑く動いても空間を知覚できない。

そう同じような動きをしても、感じるか、感じないかで真逆の結果になる。
雑に動かされれば、自分の体を感じることはできないし、
空間の中を動いていたとしても、動かされている限り新たな空間を知覚することはない。

動かされているとうのはこの知覚のプロセスを邪魔をしている。
つまり動きを感じること、空間を認識することを奪っている。結果感じれないため悪循環になる。

病院や施設の患者さんにも同じことがいえる。
障害で動きが少なくなり、その結果周囲の空間に対する認識も少なくなる。
どんどん動きが少なくなると同時に相対的に使える空間も少なくなるのだ。

空間の認識が狭くなれば自然と動くこともその空間内で行われるようになる。
とても窮屈だ。不思議なことだが、動きを減ると本当に周囲の空間の認識も変化する。
そう人は空間を忘れていく。これは正常な人でも閉じこもると発生する。

逆に外へ出かけるとか、部屋から出ることで、自然と空間を認識する。
空間との本人との関係性を強めていけば、そこに自然に行くようになる。
それは自然に。例えばベッドから起きてトイレに行くぐらい自然に。

本人に認識の中で狭い世界ならばそれがすべてと思いその中で生きていこうとするだろうし、広い世界ならより自分が広範囲に動けることを知るだろう。

肩の動き一つとってもそうだ。自分が限界だと思った肩の位置はある意味、空間の限界でもある。
だから肩の限界の位置からゆっくりと丁寧に(痛めないようにして)他に動ける空間を探せば、以外に他の空間、もしからしたら限界だと思っていた位置以上に動くことができるかもしれない。そのときは体の内側の空間も上手く使っていることだろう。

それも一度認識してしまえば、自然に起こる。

そして自然に起こることに気づくことが大切だ。

自然に起こるという反応は脳と体が統合された時の質の高い反応だと思う。
自然に起こったことに気づくなということではなく、逆に自然に起こったことに気づきましょうという話。
無理に動かすと気づきをじゃまをするし、体の自然な反応を逆に抑制する。

無理な動きは多くの場合考えすて感じることをしていない動きとか、力が入りすぎて、逆に自然な動きを邪魔している。
つまり脳の知覚を邪魔していることが多い。感じることができ、そして知覚し、脳が変化するからこそ、自然な動きとして表出するのだ。感じない動きはこの逆になる。つまり感じないことで、脳が変化し、無理な動きとして表出する。いずれにしても脳は変化として学習するがまったく質の違うものになる。

だから探索という知覚を主役とした動きを使い、結果何が起こるか観察する。
そして自然に起こることを受け入れるのだ。そのような動きを許したとき、新たな気づきが生じる。また気づきも意識できるものから、意識しない気づきも存在すると思う。とにかく探索する動きをすれば、空間や体に対する認識が変わり、結果動きが変化する。この変化を援助者が上手くとらえれるようになれ、またその動きをつかってさらに展開することができる。

もちろんこれらの知覚は空間を直接感じるわけではなく、ほんらいは主に固有覚によって体の中の感覚や外側で動けるということを感じる。そして動きが生じた時、そこに空間があると認識する。

だから人の動きを手伝うとき、空間を認識することを手伝えばいいんじゃないかと思うこのごろ。

それは関節を動かして新しい空間を発見すること、社会的な新しい場所を発見することは本質的に変わらないように思える。

そのためにはまず自分の体を感じることが必要かもしれない。あるいは体を感じながら空間を広げることが必要なのかもしれない。その変はまた検討しよう。

かといってもいきなり広く認識することは難しい。動きが比較的少ない止まっているような姿勢(私たちは一定の姿勢をとっている時もその姿勢を保つため動きが発生している)からよりダイナミックな動きと広げていくことが現実的かもしれない。

言い換えると自分の場所を感じ、そこにある存在できる空間を認識し、そして少しずつより動きを感じながら、動ける空間を認識していく。つまりより少ないほとんど動いていない単調な動きから、少しずつ様々な動き、大きな動きや複雑な動きへとつなげていくことがいいかもしれない。自分の体の認識が先か、空間が先、どちらが先ではなく常に相互的に発達していくもんなのかなと。

これもあくまでも一つの考え方として。まだ考え中です。




関連記事
スポンサーサイト

予後予測は患者さんの可能性を奪っている

06-04,2012

リハビリの世界には「予後予測」ということをよくする。
もしくはリハビリテーションゴールという言い方をしている。
患者さんの予後(到達できるゴール)を予測して、それにあわせてプラグラムを作っていきましょうという考え方だ。もしくは今の患者さんの状態に対してこのくらいのプログラムをすればこれぐらいの結果がでると予想することだ。

よく考えてみるとこの考え方は相当矛盾している。
根本的な事を忘れている。

「人は未来の事を予測できない」

何を当たりまえの事をいうが、人は未来を予測したい欲望があるみたいだ。

例えば株でもそうだ。
少し詳しい人なら知っているとおもうが、ファンダメンタル分析やテクニカル分析などのあらゆる高度な手法を用いて株の値上がり(あるいは値下がり)を予測する。
それで実際予測できると思っている人は多い。
そういう人がもし予測が外れたらどう思うか?
それは自分の勉強不足だったのだと思うだろう。

だからよりそういった分析手法を極めようとする。
そういう人はいつまでも現実をみれないので、その状態で株で儲けることができる人は少ないと思う。

ほんとにもうけようと思うなら、そういった手法を参考にはしつつ、現実的な状況の変化に適した方法で行動できるここが大切だろう。意外に思うかもしれないが、株は自分自身をしっかり見つめることが大切だという意見はほとんどの人が一致する。それは今の値動きに向き合っている自分自身をおろそかにしないということだろう。

これがまったく同じようにリハビリの世界にある。
色んな手法を使ってましてや株よりもより複雑な人という未来を予測しようとする。
だけど上手くいかないことも多い。そして間違っているのは自分の勉強不足だと思っている。
中にはそれで自信をなくしてしまっている人がいるのは非常にもったいない。


そもそも人が未来の事を予測することはできないのだ。
あなたは自分自身の未来でさえ予測できないのに、他人の未来なんてわからない。
いくら一般論を学んだとしても、目の前にいる人はそれぞれ違う。

大切なのは予測できないことを現実としてとらえ、「今」どうするかという発想だ。
そういう発想を持つことができないと、上手く現実に対応することができない。

例えば、ここまで回復するという予想は、その人の限界を決めることにもなる。
現状の医学では片麻痺とか、パーキンソンとか色々あるが、完全に理解しているわけではない。
わからないものに対してわかったつもりになっているだけだ。

予測するという考えの中に、その人だけの変化としてとらえている人が多い。
パーキンソン病は何年後かには動けないという予測を立てたとする。
実際その通りになった。
だからなんだというのだろう。

予測どおりだからそれでいいのか?
本人はそれで幸せなのか?

もしかしたら自分のアプローチが良いものであるならそうならない可能性だって大いにある。
実際、自分がアプローチすればそうならない、もしくはそれが遅くなる可能性は高くなると思うし自信はある。
パーキンソンを治せはできないが、パーキンソンだとしても上手く動けるよう学習することはできる。
それが機能的にいつまでもある程度筋の柔軟性を保つことができる。
少なくとも圧倒的に普通にアプローチするより変化は期待できる。

ほとんどの人はパーキンソン病の人に筋トレさせて、より体を固くさせている。
ストレッチをして伸張反射を誘発させている。
そんなことをすればより体を固くしている事を助けているだけだ。
より動けなくさせていることを促進させているだけだ。

だけど進行性の疾患で予後はこうなんですよ~と話せばほとんどせめられる事はない。
予後予測はある意味、セラピスト側のいい訳にもなっているんじゃないかと思う。

長々と書いたがまとめて言いたいのは

「予後を予測する行為は患者さんの可能性をつぶしている」

大切なのは予後を予測するのではなく、今の状態をしっかりとらえ「今できること」を精一杯していることではないだろうか。
患者さんの可能性をしっかり「今」みつめていく必要があるのじゃないだろうか。
もちろん進行性の疾患というのも現実だ。だからこそ、しっかり患者さんの今の可能性を見つけてほしいと思う。

※予後予測することは言い換えると目標を固定化しているとも言えます。固定化された目標にとらわれると現実がみえず、目標に振り回されてしまいます。今できることを一生懸命するというのは、常に変化をとらえ、その人にあった方向性を常に確認、修正しながら進めていく過程であると言えます。どんな目標を立てるかよりも、どのような過程で患者さんにかかわったか、そして自分がかかわった結果とどのように向き合っていくかのほうがよほど大切です。よりよいプロセスは自然とよりよい変化を生みます。つまりどんな目標を立てるか(どんな予後予測をたてるか)ばかり見ていてもあまり役には立ちません。どのように関わっていくかというプロセスを質のよいものにすれば、自然とよりよく柔軟に、より患者さんに役にたつものになるでしょう。「目標を立てる」「予後予測をする」という特別な事をしなくても、過程の中で自然に「セラピストの意図」として現れるものです。つまり過程の中で生まれるものですから、目標(意図と言った方が適切)はかかわりの中で生まれ柔軟に変化するということが大切です。目標を固定化して、そこに向かうことは大切な「過程」をおろそかにしています。


リハビリゴールを設定しないならどう関わればいいのか混乱する人もしるかもしれない(正確に言うなら退院という関われる時間内でたどりついたのがゴールだと言ってもいいが、患者さんからするとそれはゴールではなく、新たな生活の始まりでも、そこからの方が挑戦なのだと思う)

大切なのはより患者さんに役にたつかどうかで、リハビリの流れにこだわるかどうかではないからだ。そしてある意味慣れた習慣を変えるには混乱が必要なのだ。混乱しながら新しい考えを試し、理解していくものだ。

予測なんてしなくても患者さんにできるだけ精一杯かかわって、できるだけ機能を上げるお手伝いをして、そして退院日に近づくとき精一杯あがった機能でどう生活していくを考えたほうが、予測して決めただけの状態にあわせるよりよほど現実的だ。

一方的に能力がここまでと他人に判断される態度自体が患者さん受け身にさせている。それよりも患者さんと一緒によりよくなるにはどうしらいいのか考えていく方がよほど、患者さんは自分の体に向き合い元気になる可能性は高いだろう。


人生はリハビリのゴールになったから終了ではない。人生は続いていくし、変化していく。だからこそその時、その時の「今」をとらえよりよく生きていくことを手伝える人が増えれば素敵だと思う。

そんなセラピストが増えないかなあと実は願っている。少なくとも僕の後輩は気づいてきているようだ。

※これはリハビリやケアに関しての意見です。手術などのアプローチには予後を予測する必要はあります。しかし手術が終わった直後から、予後を予測するよりも今の状態を見る方が有効な事が多いと思ってます。
関連記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。