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人を自然にほめる考え方

06-29,2011

■上手く人をほめるって難しくないですか?
あなたは人をほめる時どのようにほめるでしょう。ほめることがあれば自然に口からほめ言葉もでる場合もありますが、場合によっては照れてほめることができなかったり。まったくほめるところが見つからず、うそっぽくなったり。人をほめるには色んなほうほうがあります。よくほめるのが苦手という人がいますよね。人をほめて伸ばす事が大事だと言われても、「すごいですね」「かっこいいですね」とか思っていたら素直にいえますけど、どうでもいい事でそんな事言いづらくないですか。

結局人をほめるのにそんな事をする必要はありません。むしろ白々しさが逆効果にもなる可能性もあります。そもそも「人をほめる」とは何をしているのでしょう。人は相手をほめようとするとき、何を意図しているのでしょうか。また少し考えてみてください。どのような状態になればほめたことになるでしょう。


ほめるという行為の根本的にあるのは、人を認めるという事です。要は「あいて」という存在を認めればそれでいいんです。おっこれはちょっと何かに似ていないですか。そうです。挨拶なんです。ほめるも挨拶も実は同じ意図をもっているのです。ちょっと注目してたわいもない話を話しかけるとか、そういう事でも充分相手の存在を認めていることになります。相談するのも相手を認めることにもなりますし、逆に一緒にして楽しくするだけでも相手の存在を認めることになるでしょう。そういった行動は無意識的に相手をほめているのです。もちろん最終的には相手が意味を判断するので、ほめたつもりでも、相手を怒らすこともあります。それは何も通常のほめると同じですね。

ほめるという行為には無意識のメッセージが入ってます。話しかけると言う事は挨拶と同じで相手の存在を積極的に認めていることになります。挨拶の代りに話しかけてもいいのです。相談するとい事はあなたは相談できる人ですというメッセージを、楽しくするという事はあなたは楽しい人ですというメッセージを無意識に相手に伝えています。小手先のテクニックなんてものはいらないのです。ただただ自分が楽しく過ごせば、ただ自分が周囲の事を好きになれば相手を認める行動は自然とおきます。そうすれば自分も無意識的にメッセージを送ることになります。それが自然とほめるとうことになります。

もちろん無理やり人の事を好きになる必要もありません。そして自分が楽しく過ごしても相手が「必ず」楽しくなるというものでもありません。結局メッセージは受け取り手である本人自身の中で解釈されるものです。だからいくらこちらが楽しくしてもすべての人が同じように楽しくなるわけではありません。厳密に言えば自分が楽しく過ごせば周囲も楽しくなる可能性が高くなるという事です。

 恥ずかしかったり、自分に自信が持てなくて相手に話しかけれれないという時はあると思います。というか私もそうです。だからこそいろいろと考えてみるわけです。困らなかったらこんなことは考えません。上手く相手をほめることが難しいとおもったとき、、この話を少し思いだして勇気ある一歩を歩んでほしいと思います。特に嫌いな相手ではなければお互い存在に気が付いたら最低限挨拶だけはした方がいいかもしれませんね。それがお互いをほめている事になるのですから。もちろんそれも自由です。あなたが今書いた内容を知った上で何をよりよく生きるために選択するかが大切です。






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挨拶を例に無意識のメッセージを考える

06-28,2011

■普段なにげなくしている挨拶の意味を知っていますか?
 人に挨拶するという事は、言葉が違ってもほとんどの国で行っていることではないかと思います。言葉の内容ではないということですね。言葉以外と定義した無意識のメッセージを解説するにはよい例です。皆さん普通に普段挨拶をしていると思います。また後輩や、自分の子供に挨拶をするようにとアドバイスをしたりもしています。しかしなぜ愛西をするのか、挨拶はどういう意味があるのか考えてみたことはあるでしょうか。

 「おはよう」と声をかける行為の中にも言葉の内容以外にも大切な意味合いが含まれています。なぜ挨拶を大きな声でされると気持ちのよいものなんでしょうか?逆にあいさつをしたのに無視をされるとなぜ嫌な気分になるんでしょうか。また少し読むのをやめて考えてみてください。どのような答えが浮かんだでしょうか。



■人は常に自分が存在している事を感じようとしている
 普段意識することは少ないのですが、人は当たり前のように自分は今、ここに存在しているという認識や実感をもっています。あまりにも存在していると言う事があたりまえすぎてそんな事は考えることありませんが、この実感は実は私たちが安定して生活するうえでとても大切な感覚なんです。人は自分がその場にいる事を感じるからそこに存在しているという無意識的な認識を持ちます。生まれたての赤ちゃんは自分の手や足を自分のものだとと上手く認識できていないそうです。そのため赤ちゃんは自分の手や足を動かしたり口にはこんだりするなかで自分の足なんだ、自分の手なんだという認識をしていくわけです。環境の中で動いたり、探索することで自分の認識を強めていきます。床に触れたり、手を押し付けたり色んな動作をします。環境の中で動かすことで自分自身を感じようとしているんですね。逆に環境を通して感じる事をしないと自分の認識が薄れたままで上手く作ることができません。


また少し考えてみてください。
あなた今パソコンもしくは携帯電話をみていますよね。身近にあるものを何でもいいので動かしてみてください。なんでもいいです。動きますね?


 では次もイメージしながら読んでみてください。次に先ほど触ったものを手で物を動かそうとしても何も触ることができずスカッと通り過ぎてしまいます。現実にはおこりませんが手がその物を触わる事ができず通り抜けるイメージです。何を触るにしてもスカスカして動かすことはできません。いったいどうしたんだと驚くはずでしょう。そこで近くにいる人に助けを求めますが、相手はまったくこちらに気づきません。一生懸命焦って話しているのにまるで知らん様子です。少しイメージしてみてください。

何を触っても触った感じがしない。いくら動いても物体1つ動かすことなく、周囲は静まりかえっている。人に話しけけても相手は何の反応もしない。自分の体もなんだかフワフワしている。直感的に自分の存在が半透明になっていくような感じがしませんか?これは何かに似てませんか?透明で生きているように思えない。そうです。幽霊みたいですね。存在しているかどうかはわかりませんが幽霊というのはそういう直感的なイメージから生み出されたものかもしれません。そのうち目が見えなくなって周囲の音も聞こえなくなったらどうでしょう。自分はここに存在しているという認識に変化はおこるでしょうか。自分が動いていることも感じられなくなったらどうでしょう。きっと動かされてもまったくわからなくなります。触れたり、動いたり、見たり、聞いたり、すべての感覚がなくなると自分がどこにいるかさえも、自分がほんとに存在しているのかもわからなくなります。



■人は環境から情報を受け取ることによって、さらに自分の認識を深めていきます。
私たちは手や足、体を使って僕らは環境に働きかけることができます。例えばティッシュの箱を動かそうとして手を使って動かします。すると当然ですが、ティッシュの箱は動きますね。当たり前ですが、これが重要なことなんです。ティッシュの箱が動くことで、様々な事を感じる事ができます。手はティッシュを押したときの抵抗感、腕の重さ、筋肉の緊張、視覚からはティッシュの位置の変化した事など上げだしたらきりがないくらい様々な感覚を感じるわけです。


 つまり環境側に働きかけることによって、より自分を感じる事ができます。そういう環境の変化を自分の身体で感じることで赤ちゃん同様に自分の存在を認識しています。逆に環境が無いと人はほとんど自分を感じることはほとんどできないでしょう。そもそも環境がないと空気や重力もないという事なんでその中で生きているという事自体がありえませんが、環境が単調だったり、ベットで寝たきりの生活や、家からでず引きこもりの生活をしていると環境が減るという事は言えると思います。


つまり人は動いて環境に働きかけることによって、感覚を使って感じることで自分の存在を認識しています。動けないと環境の変化は少ないですから、自分がしっかりそこに存在しているという感覚も減りますし、環境が動いたことを適切に反応しない場合も感じることは減りますので自分が存在している認識が薄くなっていきます。よ引きこもりや寝たきりは認知症の高リスクになるといわれていますが、結局自分の認識が薄くなっていくことが度を越えると、自分の認識がうまくいかず、自分の認識がうまくいかなければ、周囲との環境とも適切に関係することはできないので、また自分の認識が上手くいかないわけです。また病院に高齢者が入院したとき環境があわずに認知症の兆候が現れるというのもなれない環境や病院の生活の中で、適切に自分を認識することが難しくなっているのです。



■人は無意識のメッセージで自分の存在を確認している
 人は感じる事をしないと自分の認識が薄れていく。人は環境があるから感じる事ができる。人はなんらかの行動をして環境に働きかける事によって環境が反応します。逆に環境から働きかけられることに反応する事もできます。どちらか一方の矢印になるのではなく常に矢印が「人」←→「環境」と相互に影響しているイメージです。環境と人が相互に反応をしてるわけです。その反応を感じることによって自らが存在しているという認識を持つ事ができます。それは絶えず行われているものです。環境に働きかけ、自分を認識する事の繰り返しを死ぬまでしています。常に環境と人が適応している積み重ねが人生と言ってもいいでしょう。そして上手く適応できれば生き生きとして人生を送ることができます。


さて今まで感じるといってましたが、いったい何を感じて自分を認識しているのでしょう。それこそが無意識のメッセージです。目や耳、体全体を使って無意識のメッセージを感じています。私たちは環境の変化を無意識のメッセージとして感じそれが一体どういう意味を持つのか判断しています。そのメッセージを判断することで自分の認識に反映させていきます。それはほとんどの場合無意識におこることであり、認識することは稀です。しかしそう言った無意識のメッセージを受けることにより不安を抱いたり、時に安心したり大きな感情の変化を生みます。大きな深刻な問題にもなることもありますが人はなぜそのようになったのか適切に判断できることは少ないでしょう。引きこもりや、寝たきりで認知症になったのであれば、当然生活を変えてより質のよい無意識のメッセージが本人に受けてもらえるような生活にしなければ元気になりません。脳も問題としてだけとらえ薬をだせばおしまいではないのです。脳はたえず環境と適応するように働いてます。脳を考えるのであれば、環境も考えないと上手くいきません。



■結局挨拶とはなんでしょうか
さあ、あいさつの話に戻りたいと思います。なぜ挨拶をすると相手は気持ちいいのか、なぜ挨拶を無視されると自分は腹が立つのか。「おはようございます」と大きな声で挨拶されるのは気持ちのよいものです。人は常に環境から何かを感じています。それは実に様々なものです。挨拶される側になってみましょう。挨拶という行為自体は環境からの無意識のメッセージとして考えることができます。言葉の内容じゃありません。言葉以外の行為が重要です。気持ちよく相手にあいさつをするいう行為はは相手の存在を認めてますよというメッセージを相手に送っている。ということなんです。厳密にいうと挨拶をされる事で自分を確認するきっかけをもらえたという事です。挨拶をしてもらう事で環境が反応しているわけですから、自分の存在をしっかり認識する事ができます。


 挨拶を大きな声で相手にして無視されるとうのは、環境側からの反応がないと言う事ですね。環境側から何も反応がなければ、人は環境に働きかけている事で自分の存在自体を感じているわけですから、先ほどあげたティッシュの例と同じで自分の存在を否定された気持ちになります。つまり相手からはあなたの存在は存在してませんよというメッセージを無意識のメッセージとして相手に送っているのです。ここで注意しなければいけないのは環境に適応しようとはしているけども、環境に依存しているわけではないということです。挨拶を返してくれないのは確かに自分の存在を確認できず、不安になりますが、だからといって挨拶してもらうように働きかけなければいけないわけではありません。ひとつの環境にこだわるのは逆に環境に依存してしまいがちです。自分の存在が確認できないのであれば、自分のやり方をかえて挨拶の方法ややり方を変える、挨拶する人を変えるなど上手く環境に適応できる方法を柔軟に探していけばいいのです。


また相手は人ですので、人から受けるメッセージはよりその認識を強くします。また積極的に働きかけたのに環境からの反応が得られないのはより否定感を強めてしまいます。いじめで無視をされるというのは完全な存在否定なんですね。文句を言われるより時に残酷です。何もしていないから相手に何もメッセージを何を出していないかというとそういう事ではありません。相手に存在を認めませんよというメッセージを出しているのです。

挨拶とは声をかける行為の中で、お互いの存在を認めあう無意識のメッセージを送る事だといえます。だから世界中で挨拶があるのかもしれませんね。ハローでもボンジュールでもアニョハセヨでもナマステでもすべて言葉は違うけど意味すると事は一緒です。きっと存在を認めあえる行為であれば言葉はなんだっていいんです。挨拶っていいもんですね。




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受け止め方でメッセージは変わる

06-25,2011

■同じメッセージでも受け止め方しだいで大きく変わります
私たちは生きていれば何らかのメッセージを周囲に伝えているわけです。またなんらかのメッセージの影響も受けています。そのメッセージ(情報)を最終的に判断するのは受ける人によります。つまりメッセージの内容がどのように判断されるかは相手次第だという事です。これは無意識のメッセージだけでなく、意識されたメッセージでも同じです。どのようなメッセージであっても受け手が最終的に判断します。


 例えば公園のベンチ座っている女性に接近して男性が隣に座るとします。それが福山雅治が隣に座っているのと、よくわからないおっさんが隣に座っているのでは受けとる情報はまったく違うと思います。福山雅治のファンなら気分が上がりますけど、よくわからないおっさんが隣に座るとちょっとどうしていいかわからず焦ります。しかしです。逆に福山勝治が好きでなないのであれば、反応は全く違うでしょう。これはあたりまえのような事を言っていますが、重要です。つまり受けとる人(ここではベンチに座っている女性)によって同じ情報でも受け止め方によって内容は違うということです。このように受け手がどのようにとらえるかによって、どのような内容の情報であったか、意味はなんだったのか、つまりメッセージの内容が決まります。


 また別のベンチに座っている女性の隣に福山勝治が座ったとします。福山だとテンションが上がるかもしれませんが、おっさんだとちょっとその場から離れるかもしれません。そういった行動がある程度予測はできますよね。しかし完全には予測することはできません。福山雅治は有名人で女性ファンが多いから喜ばれる可能性は高いですが、絶対喜ばれると限りません。ひょっとすれば福山の事が嫌いかもしれませんし、本人はまったく興味がないこともあります。喜ぶ可能性は高いかもしれないが、絶対そうなるとは限りません。これはコミュニケーションのすべてが同じです。隣に座る人が彼氏や友達だという場合と、まったく知らない人がとなりに座るでは当然反応は違うわけです。だからといってその友達や彼氏が別の場所で違う人の隣に座れば、その人は知らないわけですから、また違った反応になるでしょう。結局は最終的には受け止め手のとらえ方次第なのです。つまりメッセージは相手次第なので、完全に出したメッセージを思ったとおり伝えることはできませんし、同じ内容が頭にはいったかなんてきっちり確認することはできないことです。ただ相手の受け止め方を予測してメッセージを送り、その反応を見ることはできます。その反応をみて理解していると想像することはできます。そしてその反応を自分の受け止め方で判断し、また相手の状態を予測しながらメッセージをなげかける。このやりとりが実はコミュニケーションなんです。つまり完全に相手のことはわからないということです。あくまでも予測したり、想像しているだけなのです。



■誰も相手に直接伝えることはできない
自分と相手の関係において相手の反応をみながら自分のメッセージを変えることはできますが、相手の反応を直接変えることはできません。あくまでも自分が変わった反応として間接的に相手の変化があります。つまり自分は自分の行動しか変えることができないし、それと同様相手は相手の行動しか変えることができません。コントロールできるのは実は自分だけです。後は人それぞれに反応していくだけです。自分が変われば間接的に人は変わりますが、自分が変わらないまま直接相手を変えることはできません。自分が変わった結果、相手は反応して変わっているだけです。その反応は自分がコントロールできるものではありません。できるのはその反応をとらえて、また自分の行動を調整していくしかありません。そうすることで相手は少しずつ間接的に反応を変えることができます。また最終的に相手の行動は相手が決めるものですから、いくら自分の行動を調整していも、相手を完全にコントロールすることはできません。つまりこちらの望む変化を相手に強要できるものではありません。例えば強要する事によって明らかに意図していた情報以外が無意識のメッセージとして伝わりそれが人を受け身にします。自分の事を好きにさせたいと思って相手に好きでいろと言っても好きになるものではありませんよね。また無理やり人を働かそうとしても相手には無理やり働かされた、物みたいな扱いをされたという無意識なメッセージしか入ってきません。それでは人はしっかり働くどころか言われた事しかしないようになります。肝心なのは相手にいかに好きだと思ってもらうか。どうすれば働きたいと自分で思ってもらえるかです。そのためのきっかけをどのように提供するかが大切ですが、あくまでも最終的な結論は本人にあります。また本の後半に詳しく書きますが人を変えることなんていうのはできないのです。できるのはきっかけを提供することだけです。そして待つことです。



■自分でさえも直接伝えることはできない
 自分に視点を向けてみましょう。メッセージを出した相手だけではなく、自分のメッセージの受け止め方はどうでしょうか。最終的にメッセージは受け止め手が判断するものですから、自分へのメッセージも自分の受け止め方しだいで変わるという事です。ベンチに座っている反応をどのように受け止めるかは今度は自分次第です。日常の生活では絶えず意識、無意識かかわらずいろんな情報やメッセージが自分に影響していますが、最終的に受け止め手が判断するのですから、その情報が福山雅治にもなり、木村拓哉にもなるか、韓流スターにもなるか、もしくは嫌いなタレントになるかはあなた次第です。また今起こっていることを判断しているのも自分自身です。誰かと行動したとき、相手の行動を自分のフィルターを通して解釈するわけです。つまりデートをしたりして、相手が喜んでないのは自分に興味がないんじゃないかという判断もできるし、あまり喜んでないは緊張しているだけだとか、同じ情報でも自分自身の受け止め方しだいでまったく逆のとらえかたにもなります。もちろん情報をうまく適切に判断できれば、よりよいコミュニケーションが相手とできるわけです。


受け止め方で物事は変わると書きましたが、ここで大きな落とし穴があります。受け止め方が変われば物事が変わるなら、受け止め方を変えましょうという発想です。よく言われるポジティブシンキングや前向きに物事をとらえましょう。なんてもものはこの筆頭でしょう。物事をポジティブに、前向きにとはよく言われますし、いろんな本にも書いてありますけどね。ここではっきり言いましょう。それは無理なんです。正確に言うと無理を生じます。そりゃあポジティブにとらえる事ができたらそれはそれでいいと思いますが、落とし穴にはまった考え方です。多くの人がこの落とし穴にはまっているわけです。ポジティブや前向きがいけないわけではなく、やり方がまずいのです。何が無理があるのか。受け止め方は思い通りにコントロールできないということです。例えばおっさんを木村拓哉だと思えといわれたらあなたは思うことができるでしょうか。できないですいよね。だって目の前のおっさんは木村拓哉じゃないのですから。あたりまえのことです。しかしそのあたり前のことをポジティブやら前向きやらを自分の物事に対してやっているわけです。無理におっさんを木村拓哉だと思って行動したらしんどいのあたりですよね。自分をだましているだけです。仮におっさんを木村拓哉だといきなり信じ込むことができるのは、催眠や妄想の世界です。周りにどうみてもおっさんを木村拓哉だと思って接している人をみれば、大丈夫かなと思うでしょう。しかし同じことを物事や仕事にすると、なぜかみなさん本を読んだりしながら、木村拓哉だと思い込もうとする。私も昔はそうだったので人の事はいえませんが、やっぱりみなさん大丈夫ですかってなります。正論やポジティブ、前向きという聞こえのよい言葉を言われてしまうと無理もありません。自分でそんなに自分を苦しませないでいいですよといいたくなります。受け止め方というのはたとえ自分であってもコントロールできるものではありません。


■自分の行動を変えることで無意識のメッセージを変えることができる。
ではどうすればいいのか。唯一メッセージのやり取りでコントロールできるのは、メッセージの送信だけです。送信するとことに関しては完全にはできませんが、ある程度コントロールしています。私たちは生きていることでいろんなメッセージを出しています。もちろん行動することや、態度なんかもにもたくさんの無意識のメッセージをだすことができます。つまり行動やふるまいを変えることでメッセージを変えることができます。本を読んで人生観が変わったという人もいますが、細かく分析すると、本を読んだことををきっかけに行動したのです。きっかけをもとに自分の行動や体験をすることで結果自分自身のメッセージの受け止め方が変わるわけです。逆に言うと本を読んだだけでは何も変わらないということです。行動して、情報の発信の仕方や内容を変えるからこそ、自分に変化を与え、また間接的に周囲も変化していくのです。

自分のメッセージが変われば、間接的に自分に影響を与え自分の受け止め方を変えることができます。それは自分の行動を変えてみた結果変わるだけで、直接は変えられなのです。行動をかえ、自分のメッセージが変わると、結果的に受け止め方は変える事ができます。おっさんも、一緒に行動してみることによって実はすごい人だったり、人間的に尊敬できたりすれば、結果木村拓哉とは言わないまでも、印象をガラッとかえることができるのです。いきなり木村拓哉だと思うことはできませんが、自分のかかわり方という情報の送信の仕方をかえれば、相手の印象はかわります。もちろん逆にそのおっさんが実はもっと嫌なやつだったという認識にかわるかもしれません。その時はまたかかわり方をかえればいいのです。そうかといっていくらかかわり方を変えても嫌なものは嫌な場合もあります。さっき書いたことと同じですね。受け止め方をコントロールすることはできないのです。このおっさんが実は自分なのです。おっさんを自分に置き換えて考えてもいいのです。本質的に他人を判断するときも、自分を判断するときも同じです。自分に対して自分がどのようなふるまいやかかわり方をするかによって自分に対する受け止めた方ががかわります。完全に受け止め方をコントロールすることは自分であっても他人であってもできないのです。自分でコントロールできるのは自分の送信の仕方、つまり行動やふるまいだけです。そして、自分が変わることも、行動や振る舞いの中できっかけ提供してあげるだけです。あとは待つことだけです。一緒でしょ。


■相手の立場にたって考えることの大切さ
相手がどのように判断しているのか完全に解る事は困難ですが、自分の体験から相手の状況を共感し理解することはできます。人は自分の体験から相手の状況を予測し判断しています。例えば1人になった時寂しいと思う体験をすると、同じように1人になっている人を見て、この人は寂しいのかな?と予測する事ができます。僕らは生まれた時から様々な状況を体験する事によって相手の様子を予測することができるようになっています。それがコミュニケーションをする上で大切な基盤になっています。人が同じような状況の人に深い共感を抱くのはこのためでしょう。それでもあくまでも予測であり、常にそれは修正していく必要があります。しかし予測するというのは一見あいまいなようにも思えますが、予測できるからこそ人をおもんばかり共感し大切にする事ができます。だからこそいろんな体験をしている人は魅力的なのかもしれませんね。完全に相手の理解をしている事を知ることはできません。あくまでも相手の体験は相手が感じるものだからです。その感じ方は様々なので僕らは常に自分の体験から予測や想像していくしかないのです。そしてそれは自分にも当てはまるのです。



■メッセージを受けて自分の価値観を作っている。
 自分が出した無意識なメッセージ(情報)は相手だけではなく自分も含まれます。自分がだす無意識のメッセージを自分自身が受け止め自分が他人を判断するのと同じように自分自身も判断していることを見てきました。自分の考え方や価値観はどうでしょうか。自分に対して自分はどのような価値をもっているのでしょうか。例えば楽しそうな人を見れば「この人は楽しい人なんだ」と判断すると思います。それと同じように自分が楽しく過ごしていると自分で自分の事を「楽しい人なんだ」と思えるようになります。さらっと書いてますが意外にに重要です。自分自身でメッセージを自分で自分に送信しても、受けては自分自身なのですが、やはりそのメッセージをもとに自分は楽しいやついだという判断をします。もちろん受け止め方で変わりますが、なんらかの判断をして価値をみつけるわけです。自分のことでさえ自分のメッセージをもとに、自分を想像し作り上げています。自分も結局いろいろなメッセージから自分を「判断」しているのです。人はいろんな体験をするなかでさまざまなメッセージを発信し、また同様にさまざまなメッセージを受け取っています。そこには他人からもありますが、自分自身からのメッセージも含まれます。その繰り返しのなかで自分を想像しているのです。その結果が今のあなたです。今までどのような体験をどのようなメッセージを受け、また発信し、自分を判断してきたでしょうか?

 人は物事を判断する基準としてその人なりの価値観をもっています。嵐がかっこいいという価値観をもっているからかっこいいと思えます。人によってはワイルドなケンコバ(お笑い芸人です)のほうがいいかもしれません。まった違う文化の中で育った人が福山雅治をみてかっこいいと思えないのは価値観が違うからです。

 同じように自分自身に対しても自分が出す無意識のメッセージ(つまり自分で自分に出している情報)を自分の今ある価値観で判断します。そして自分自身もその情報に反応し自分自身を変化させていきます。例えば自分はダメなんだという価値観や、失敗したらダメになるという価値観をもっているとします。すると自分が失敗した時「より自分はダメなやつだ」と判断します。しかし自分はイケている。かっこいいと思っていると同じ失敗したものごとでも「失敗したからってたいしたことない」と判断します。

 自分の事ではなくても他人の場合でも同様です。相手の人をダメなんだと思っていると少し失敗したらやっぱりあいつはダメだと判断します。そして責めるかもしれません。逆に相手がすごそうな人だと少し失敗してもそこまで気にとめません。やはり自分と他人のとらえかたって実はまったく同じなんですね。ちょっと意外でしょ。ただ1つだけ大きく違うことがあります。それは自分で自分の出す情報のコントロールはできます。意識することで自分の出すメッセージのコントロールはできます。しかし他人の出す情報のコントロールはできません。そこは大きな違いです。 もちろんその価値観は無理やり変えることはできません。体験の中で作られるものです。無理やり思い込むことはできません。






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普段意識しないからこそ無意識のメッセージ

06-25,2011

■常に人はなんらかのメッセージを出している

みなさんいきなりですみませんが少し考えていただけますか。

「今あなたは座ってなにもしていません。この状態であなたは何か周囲にメッセージを出しているでしょうか。」
「出しているとすれば、どんなメッセージを周囲に出しているでしょう。」

あなたは何かメッセージを出しているでしょうか。もし出ているのならそれはどういうものでしょか。それは多いですか。それとも少ないですか。何に影響を与え、どんな変化をもたらしているでしょうか。そしてその変化はあなたに逆にどのよな影響をもらたしているでしょうか。普段そのような事を考えた事はありますか?


 人は何かを伝える時、話すことやジェスチャーを中心に相手に伝えていると思っています。しかし人は生活しているだけで、あるいは存在しているだけで実に多くの情報を周囲に発しています。例えばただ立っている時、歩いて時、寝ている時でも生きていれば常に情報を発しています。人は生きていれば常に周囲に影響を与えています。もちろん他人に対してもですが、人に限定することでもありません。例えば床に座っていれば、床に自分の体重としての力がメッセージとなり、床に変化を及ぼします。それも人が存在している中で床に影響を与えているものですから床に対するメッセージとしてとらえれもかまいません。逆に床ではなく人を無理やり力で押すとそれもメッセージとして相手に心理的にも身体的にも影響を与えるでしょう。人が生きている、普段生活している中で発する情報で、特に普段意識しないものを「無意識なメッセージ」となずけましょう。無意識的なメッセージとは自分が知らず知らずのうちに周囲に出している「情報」の事です。


今は人に対して無意識のメッセージを考えていきましょう。例えば道を歩いて向こうから人が来たとします。人が来る事でお互い無言でも避けてかわす事ができますね。それも1つの無意識的なメッセージです。同じように道に歩いている人にいきなり無理やり手を引っ張って動かせば怒らせることもできますね。それも1つのメッセージです。またあきらかに焦っている人をみればこの人焦っている、あわてているなとわかりますよね。緊張していなさそうな人でもちょっと手を触れてみるとものすごく緊張が伝わるとか。ただそこに座ってボーっとしているだけでも暇そうだとか、逆に一緒にいてくれているんだという情報を相手に伝えていることになります。ただその場にいるだけで、あなたが存在してますよというメッセージを周囲に伝えてますよね。まとめますと意識的にしているメッセージ、例えば「おはよう」、「このようにしてください」という言葉ではなく、言葉以外のすべての情報あるいはメッセージの事を無意識のメッセージという事ができます。


注意しなければいけないのはあくまでも言葉以外なので、言葉に付属する声のトーンや、誰が話しているのか、どんな状況で話しているのか、声の抑揚などは無意識的なメッセージになります。言葉でのメッセージも実は常に無意識のメッセージの影響を受けているものです。同じ内容でも尊敬できる人が話すと信じる傾向が強くなりますが、いつもいいかげんにしている人が話すとたちまち胡散臭く聞こえるものです。また声以外の行為や態度、ふるまい、自分の在り方やただ存在していることなども無意識的なメッセージです。僕たちの日常生活においてそうった無意識の情報が絶えずでています。そう常にです。にも関わらず、多くの人は意識することはありません。毎日常に出ているのに、自分で気づかずそのままにしている。



■生きている限り常に無意識のメッセージが存在している
人は常に無意識のメッセージを出しているのなら逆に無意識のメッセージの影響も受けているわけです。逆に人は生きていれば常に何かに影響されています。また人だけでなく、ものにも影響を受けているのです。床からしっかり支えるというメッセージを受け取るからこそ、実は安心して座ることが無意識にできるのです。ぐにゃぐにゃしたところに座ろうとするととたんに安心して座ることができません。人はメッセージを感じ取って体を調整することをしています。人に対してはもっとわかりやすいかもしれません。ただ自分に対して楽しく接してくれるだけ、あなたといると楽しいのだというメッセージを相手に伝えることにもなります。もちろん後で書いていきますが、メッセージは受け取り方でかわりますが、絶えず無意識のメッセージが生きている中で存在しています。


なんだかすごく損していたように思いませんか。無意識のメッセージは人の根本的なコミュニケーションのもとになっているものです。生まれたたての赤ちゃんは主に無意識のメッセージを使って成長し学習していきます。愛されることを知るのも言葉ではなく、実は無意識のメッセージの中で学習しているのです。言葉は体験をもとに作られるものです。愛されるという体験があって愛という言葉が始めて意味をもちます。その体験は実は無意識のメッセージによって体で感じとるものです。生まれたての赤ちゃんに「愛してる」といっても言葉では何も伝わりません。伝わっているのは「愛している」といっているときの態度です。例えば大事なものを扱うような触り方や扱いかた、落ち着いた声の抑揚、幸せそうな親の振る舞いなど無意識のメッセージが愛として伝わっているのです。ある程度成長し、言葉で伝えることも大切ですか、それは「愛される」という体験がないと結局は意味をもちません。


そしてまたこれも後述しますが、自分の出している無意識のメッセージが、自分に影響を与えています。それもかなり大きな影響を与えています。人は自分の無意識のメッセージをしっかり感じ取らなければ生きていくことさえも難しくなります。それぐらい大きな影響があるのに、多くの人がそれに気づいていません。


普段の生活を送るうえで、いつの間にか言葉というコミュニケーションの手段ばかりに注目され、無意識なメッセージをいつのまにか忘れてしまいます。しかしこの無意識のメッセージを知っているの人と知らない人では大きな違いが生まれます。もう一度質問します。自分の無意識のメッセージを確認してください。

「普段あなたの生活でどのような無意識なメッセージを出しているでしょうか」
「今、あなたはどのような無意識のメッセージを周囲にだしているでしょうか。そしてそれはどのような影響あたえていますか。」
「逆にあなたはどのような無意識のメッセージに影響されているでしょうか。」

無意識だからわかりにくいかもしれません。何かに影響されているなんて事も実感がわかないかもしれません。ただ一度考えてみてから次を読んでくださいね。自分で今の状況を振返り考える事が大切ですから。





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案外自分の事を分かってないジブン

06-24,2011

■世界はかなりのスピードで変化している
私たちのすんでいる社会は良くも悪くも確実に変化しています。じっとしていても、その変化を感じなくても確実にこの世界は変わってきているのです。日本でも一昔前と今では仕事のあり方も大きく変わっています。終身雇用や年功序列が崩壊しているばかりか、パソコン・インターネットの発達により国と国の境目が薄くなり、また情報も2剰の世界になって急速に世界はこれまでに見た事がないスピードで変化しています。道具はますます便利になり、この社会はどのような進化をとげるのか予想もできません。それは悪い事なのか、よい事なのかはわかりません。ただどちらにしろ実際に世界は急激なスピードで変わっているもの事実です。まともに変化についていける人はごくわずかでしょう。閉塞感に満ち溢れた今の日本ではある一定の環境や考え方になれすぎているので世界の人に比べるとより適応しにくいかもしれません。


■ただ生かされているという状態になっていませんか
これから先、たしかにより便利になるでしょう。よりすべてが早くなるでしょう。便利は時に人を助けるものですが、時に人の感覚を鈍くしていくものでもあります。これからの未来はより何も動かず、考えることもなく多くの物事ができてしまうわけです。1日中ボタン1つで住む生活を想像してみてください。果たして便利だけどそこに自分が生きている実感を持つことはできるでしょうか。便利な世の中になっていますが、そのまま常に受身になることでいつの間にか人は環境の中で生きているのではなく、環境の中で生かされていくようになります。ただ生きることのできる水槽の中で飼われているような、そんな印象を受けます。世界は発展していっているのかもしれません。しかしその発展が人を退化させる事だってあるのです。今も環境の中でただ生かされている人は周りにいませんか。何かあれば周りが悪い、何かしてくれないからだとかと自分は何もすることなく周囲への不満や不平を言いいます。なんとなくご飯を食べて毎日なんとなく仕事する。自分の行動は自分が選んでいるのにそれさえも気づかず、誰かにさせられていると思っていたり。そこに自分で生きているいう感覚が希薄になっている人はいませんか。いつの間にか生きるのではなく、この環境の中で生かされている。やはり水槽の中で飼われている魚のようになっているような気がします。魚と違うところは人は本当はみずから仕切りなんてものはないのに、便利でそれなりに死なずに暮らせるためそこから動かなく、仕切りがあると思いこんでいるということでしょうか。

 よくロボットが人工知能を得て人間を襲うなんて映画がありましたが、確かにその想像は外れてはないように思います。ただ違うのは人間はより何も考えず、感じず現代のロボットに近づいています。生きているというよりかは毎日作業しているように思いませんか。ロボットが人間になるではなく、人間がロボットに近づいてきているようにも思います。

 便利が悪い事ではありません。世界が発展するのも悪い事ではありません。自分がどのように行動するのか、自分がどのようにあるのか(存在するのか)が重要です。便利も使いこなせればより人は色々な世界を見ることができます。飛行機が開発され僕らはそれに乗ることで気軽に海外にもいけるようになりました。日本中飛び回ることだってできます。インターネットを使って普段は購入することができないものも買うこともできます。インターネットで海外の友達を作ることだってできます。それはまた新たな体験をつくるでしょう。それは便利なくしてはできないものです。もう一度言います。便利は悪いことではありません。ただ便利だからと言ってなにも考えず流されてしまう事が受け身の状態を作るのだと思います。便利は使いようです。今のまま、ただその場に生かされていることで自分が本当に満足できるならそれは1つの選択肢です。ただ便利をうまく使ってより主体的に生き生きと過ごすことを選択することだってできるのです。




■もしかして自分の事わかっていると思ってませんか?
 私たちはどのように行動していけばいいのでしょうか。闇雲に思うがまま、思い込みに任せて動けばいいのでしょうか。人は自分が思っているよりも案外自分の事をわかっていないものです。どこかで自分のことを知っていると思っていますが、実際しらないことのほうが多いのです。またわかっていると思っている人はそれ以外の自分の可能性を見なくなります。それ以上の自分を発見することはできません。自分のことをわかっているという思い込みが自分に注意を向けなくなり知らない自分自身を発見することなく自分を固定化しています。もっとよい部分があるかもしれないのに、自分とはこのようなものだと思い込むことで自分の可能性を閉じてしまっています。もっと色んな一面が自分にはあるかもしれないことを、わかっていると思いこんでいるばかりに自分の違う一面を見ようとしません。自分らしさという思い込みの中で自分の可能性を否定しています。多くの人はこんなことを言われるまで「わかっている」のか「わかってないのか」さえ考えることもしません。多くの人は無意識的に「わかっている」という前提で考えてしまうので限られた自分から抜け出せずいきずまってしますのです。

 何か問題が起こった時、私たち自分以外の他人や環境など外を変えようとします。しかしその時変えることができるのは自分自身です。物質的な限られた範囲で変えることや、新しい環境に自ら行動することはできますが、完全に世界を思いどおりにできるのは仮に存在するのであれば神様しかいません。自分以外の人を思い通りに変えることはとても難しいものです。すべて自分の思い通りに環境が変わるというこはできません。人が唯一楽に変えられるのは自分の行動だけです。どうにもならない状況の中でよりよく生きたい時、状況の変化が大きい世の中で一番目をむけなればならないのは自分自身です。自分に目を向けるためには、自分を知り、人を知る必要があります。自分を知ることできれば、変化する世の中で自分をよりよく使うことができ、より柔軟にこの世界や世の中とうまく付き合っていくことができます。そしてより柔軟に環境に適応することで人はよりよく生きることができます。人が生き生きと過ごしているとき、それは環境に適応している時なのです。

世界は変わります。そして予測なんてだれにもできません。そんなことができれば私は今頃株でも買って大金持ちです。よく未来をイメージして行動する考え方がありますが、それは実に危ないことです。夢を持つことはいいのですが、それに執着するあまり、今を大切にできなくなってしまいます。そしてもっとよい状態の自分というものが発見できなくなるのです。夢をあきらめろといっているわけではありません。今をよりよく生きることが夢につながることもできるんじゃないかという話です。夢を追いかけている今が幸せならばそれはそれでかまいません。プロ野球選手になりたい子供は、今野球する事がすごく楽しくで夢中になれればそれを続けていけばいいんです。自分は無理だからと思う必要もありません。言いたいことはただよりよく今を生きていこうということです。

そして夢はその中で同じでもいいし、変わってもいい。夢をかなえるということは夢を実現することで自分がよりよく生きるための手段です。夢をかなえても自分が不幸になったら意味があません。俳優になろうが、金持ちになろうがそれは自分が幸せになるための手段です。そこを勘違いして金持ちになる手段を夢にして、家族を犠牲にしたり、友達を裏切ったり金持ちになったけど孤独で幸せでないということに意味はあるのでしょうか。もちろん価値観はひとそれぞれなので、そういう人生でもいいというのなら否定しません。だけど金持ちになりたいあまり、自分を不幸にしていることでさえ気づいていない人は、もう一度自分が幸せに生きる選択もあれば、より自分が納得できるほうを選ぶことができるでしょう。金持ちは不幸という話ではありません。金持ちになって幸せになる選択もあるのです。だけど本当になにを望んでいるかを案外人は気づきません。いつの間にか目的と手段を入れ違ったまま行動している人も多いのです。


世界は変わっています。どんな環境や状況になるかわからない今だからこそどこにでも生き生きと適応できる自分を発見していかなければならないのです。自分を知り、その環境に適応する鍵となるものが新しい体験の中で自分の思い込みに気づき、新しい自分や考え方を発見する。そうすることで人は新しい選択に気づきより自分で生きることができます。自分で主体的に選択することで私たちはこの変化にとんだ世界の中でより自由に豊かに生きることができます。情報が氾濫している今だからこそより「自分が何を感じ何を思うのか」という自分に注目することが大切になってきます。


■自分を知ることで人を知り世界を知ることが出来る
人は普段意識していないだけでただ普通に生活しているだけで、無意識のメッセージを周囲に常に発しています。それを受け取る側も意識する、しないにしろ影響を受けて生活してます。多くのひとはそれに気づいていません。時々直感的にわかる場合はありますが、意識をしている人はあまりいません。もちろんスピリチュアルなものでありません。どちらかと言えばそれを解明するためのものです。興味があれが少しずつ解説していくので読み進めてください。無意識のメッセージは言葉やジェスチャーと同様、もしくはそれ以上に周囲に与える影響は大きいものです。人間は生きている限り常に無意識的なメッセージを放ち、絶えず無意識的なメッセージを受け取っています。つまり生きている限り切っても切れないものなんです。その無意識的なメッセージをとらえ上手く使うことができれば、もっと生きやすくなります。

またその無意識のメッセージによって自分のセルフイメージが形成されています。セルフイメージとは自分はこうであるという認識です。詳しくは後で書きますね。よく自信をもてという言葉を聞きますが、自分を信じるとはどういった状態をさすのでしょうか。自信とはなんでしょう。実はどんな自分でも自分だという状態を持てることが自信なんです。イケてる自分、イケてないない自分色んな自分がいます。あたりまえです。完璧な人間なんていません。イケてる自分だけ自分だと認めてしまうと途端に窮屈になります。だってそんなの無理ですから。だからどんな自分で自分だと受け入れる。それが自信なんです。そしてそこにセルフイメージが大きく影響されてます。

自分を新しい視点で考える事ができれば、他人についても同じように考えることができます。自分同様に新しい視点で他人をとらえる事ができます。ある人の事を頼れるとか、この人ステキとか自分と同様なんらかのイメージを持っているわけです。だけど相手を信じるというのはそのイメージ通りに行動してくれることを望むのではなく、やはり変化する自分を認めてあげるのと同様、どんなあなたでもあなたですよ。という事が相手を信じるという事になるのではないでしょうか。このように自分に対して考える事は、逆にいえば他人の事を考えるための基礎になります。ですから自分に対して知らない事を相手に対してできるわけがありません。

このように自分を知れば、そして自分を通して人を知れば、この世界の色々な事について考えられるようになります。考えてみればあたりまえの話です。世界は常に変化していますが、自分は常にそこにいますから。人は自分を通じてでないとこの世界を見る事はできません。自分の体験は自分の体験ですが、相手の体験はやはり相手のものなんです。しかし自分の体験を通じて世界をみることはできるのです。自分というフィルターを磨けばより世界を、世の中を細かくみれるかもしれません。

 セルフイメージと無意識的なメッセージを変える。これを言いかえると「自分との付き合い方を変える」という事だともいえます。自分というものを決まり切った思いこみをせず、もっと自由に自分自身と付き合っていってもいいんです。本来人はもっと自由です。それを自分自身でおもしをつけないでください。自分で自分の足を引っ張るのは馬鹿らしいことです。悲しい事でもあります。そして同じように他の人の足を引っ張るのはとても情けない事だと思います。自分が自由でいるという事は他の人も自由でいるという事です。何度も言いますが人に好き勝手に危害を加えたり、自分の価値観を相手に押し付けたりする事は相手の自由を損なう行為です。同じように相手にされればそれは自分自身も自由を奪われるでしょう。そしてそれが分かれば自然に他人に自分の価値観を押し付けることも減少するでしょう。



2章 あなたは知らないうちに影響しあっていると気づいてましたか
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他人や自分にも思いこみを押しつけている

06-23,2011

■どこかに大切なものを忘れていませんか?
 私たちはとても豊かな国で生活しています。例外はあるかもしれませんが、きれいな水をいつでも、どこでも飲む事ができます。インターネットは発達し、町にでればギャンブルや娯楽などがあふれています。テレビをつければ何かしらの情報や誘惑が常にあります。僕たちの住んでいるこの日本は少なくともこの世界の中でみると裕福な国であると思います。経済大国であることに変わりはありません。

 しかしなにか窮屈ではないでしょうか。何か満たされない気持ちももって生活していませんか。生き生きとしている人と自分を比べてため息をしたことはありませんか。確かに娯楽もあるし、死ぬリスクは限りなく低くなっています。だからといって本当に楽しく生きているのかといわれると疑問を持たれる方も多いのではないでしょうか。その違いはなんでしょうか。

もっと楽しく生き生きと毎日が過ごせたらと思いませんか。私自身がそうでした。何か違和感というか満たされない気持ちで生きていました。ただ生きるためだけに便利なものや娯楽などまですべてそろっているはずなのに。なぜ生き生きと過ごすことができないのでしょうか。どうすれば生き生きと毎日を過ごすことができるんでしょうか。私たちはいつのまにか何か大切なものを忘れているのではないでしょうか。

■昔よりも閉塞感が強くなっている日本
日本は今、閉塞感に溢れているように思います。閉塞感の中で生きにくさを感じている人がたくさんいます。世の中の学者やコメンテーターは経済が原因だとか、デフレに経済の悪化、消費の低下、少子化が原因だとか言われていわれています。確かにどうにもならず経済的な苦しさが閉塞的な状況を作り出すことはあるでしょう。

 だけどその理解ですべて解決するのでしょうか。僕らがこれから生き生きと過ごすための答えは経済的な豊かさなのでしょうか。他の国はどうでしょうか。日本より物質的に豊かでない国はたくさんあります。まがりなりにも日本は先進国の1つです。先進国ではない国に住んでいる人は日本人よりも閉塞感を抱えているのでしょうか。昔発展途上国だったころの日本は閉塞感は今より少なかったのでしょうか。先進国の人のほうが本当に幸せなんでしょうか。

 現在の日本のは昔の日本よりも閉塞感は強くなっていると思います。うつ病や、自ら命を絶つ者も増えているのはなぜでしょうか。個々によって理由は様々ですから、もちろん経済的に苦しい人もいるでしょう。逆に経済的な理由だけでは日本は昔に比べてずっとそのような人が少なくなるはずです。しかし現実はそうではありません。むしろ増えています。どうやら経済的な理由以外にもう一つしっかり知っていなければいけない事がありそうです。これから先、生き生きと生活していくためにも閉塞感っていうものの正体を見極めていかなれければいけません。


■閉塞感は実態がない
閉塞感とは何なのか。閉塞感というのは苦しさ、生きにくさ、動きにくさという人の感覚や価値観なのです。同じような状況でもそこに対して閉塞的なのかどうなのかを判断するのは、そこにいる人が個々で判断することです。もちろん経済的に豊かな事は大切な事です。お金がないとご飯も食べれません。食べれないと当然死んでしまいます。お金が必要ではないと言っているわけではなく、お金だけでは解決できないと言っているのです。経済的に豊かであっても、そうでないにしろ、その状況の中でどのように感じるかはその人の思うところに左右されます。今の日本は他の国に比べると豊かだと思います。まともに水さえ飲めない国もあるし、まともに医療を受けれない国もある。そういう国に比べるとどれだけ恵まれているでしょうか。あくまでも状況だけをとらえると日本人は生き生きと過ごしていると考えれます。だけど現実にはそうならない。なぜかそのような一見めぐまれた状況の中でも閉塞感を感じてしまいます。


■知らないうちに誰かの価値観に影響されている
今まで日本はがんばってきました。頑張って、努力し発展し先進国になり、物が豊かになってきました。逆にいえば頑張りさえ行えばいいのです。これまで私たちは頑張ってさえいれば社会が自分たちの事を守ってくれました。何も考えなくてもただがんばっていれば家族を持ち、家を購入しマイカーを手に入れ、子供を大学に入れることができたのです。そして老後も国が年金によって補償してくれていました。だからこそ自分のためではなく会社のために生きることができました。そしてそれが正しいという価値観が社会の中にあふれていました。

しかし時代は変わりつつあります。会社のためにがんばっても会社がつぶれたり、リストラにされることも珍しくない時代になりました。何も考えなくて生きるということができない時代になりつつあるように思います。しかしがんばってきた日本で私たちは成長して大人になってきました。成長していく中で無意識的にも意識的にもそういった社会の価値観に影響されて僕ら自身の価値観を作り大人になっていきます。いつもまにか、私たちの深いところにそういった価値観が影響されています。

「こうしなければいけない」
「こうすることが正しいことだ」
「失敗してはいけない」
「楽をするな。人間努力しなければいけない」
「無理してでも続けろ」
「歯を食いしばって努力したやつしか成功できない」

というような事を一度は言われたり、思ったりした事はありませんか?


■自分にも他人にも思いこみを押しつけている
 私たちが成長している間に無意識にか作られた価値観が閉塞感のある日本を作りあげています。今の日本はお互いが閉塞感を押し付けあっているような気がしてなりません。お互いに正しさを押し付けて生活をしているように思います。また多くの人は正しさやこうしなければいけないという事を無条件に、そして疑う事もなく信じています。自分の持っている考え方がまるで世界中変わらないあたりまえの事のように思っているのです。だから他人も同じだと思いこみます。それは他人ばかりではなく自分自身にも閉塞感を押し付けています。そう自分自身にもです。今ここでしっかり考えてみてください。がんばると言う事は本当によい事なんでしょうか?それが正しいことなんでしょうか。

がんばる事がいけないことだは言いません。それは人それぞれです。また状況によって変わるものです。人それぞれの目的に向かっていけばいいのです。しかしがんばりすぎて体調をくづして人生をうまく生きれない人もたくさんいます。また一日中楽しくて仕方がなく仕事をしている人には、いやだと思って歯を食いしばって仕事をしている人はかないません。また自由であれば人を傷つけてもいいとも言いません。人は本来自由ですので、相手の自由を侵すといことは、人の自由を尊重していないわけです。つまり自分は自由ではないということになります。わがままと自由は違います。自由とは本来お互いを尊重するなかで存在するものです。

 生き方というものに答えがあるわけでなく、あるとしたらそれは雄一自分の生き方しかありません。しかし自分の生き方がよくわかわからず、今まで当たり前だと思い込んでいた常識や考え方を疑うことさえする人が少ないのが現状です。いつの間に影響された価値観を自分の価値観として無理にでも取り組んでしまいます。またどこかの本にでも書いている事をそのまま鵜呑みにしたり、本に正解があると思っている人も少なくありません。もちろん参考するのはいいですが最終的には自分で決めるものなんです。自分で決められないと人からこうすべきだという価値観を違和感がありながらも自分を抑え込んで納得しようとします。そしてそういうものだとまた同じように人に押し付けてしまいます。他人の価値観で生きると言う事は自分の人生を他人にゆだねてしまう事になり自分で考えなくなります。

私たちは色々な価値観を押し付けられ生きてきました。しかしその価値観のおかげで深く考えなくても、人とは何か、自分とは何かを考えなくても生きていくこともできたのです。そして何も考えなくても社会が発展し生活ができてきました。ただ同時に自分の感じた事よりも優先してしまうので、窮屈さを感じます。考えなくても動くことができるのでより考えず、自分よりも周囲の価値観に合わせて生きるようになります。つまり他人の価値観や正しさばかりを自分に無理に押し付け本来の自分の感じた事や考えを自分で否定したり奪う事が閉塞感を感じる原因なのではないでしょうか。

多くの人が思っている価値観や常識、正しさなんてものは思い込みにしかすぎません。人は自分の思い込みで自分を縛りつけ、また他の人まで縛りつけます。これから少しずつ思い込みを検証していきたいと思います。こんなことまで思い込みだったのかと驚きますよ。



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はじめに

06-21,2011

■人は今を生きている
突然ですみませんが、人や生物には死というものが必ず訪れます。

必ずおこるものですが、正確に予測することは難しいものです。またこのように口に出したり、聞いたりすることに抵抗のある人もいるでしょう。私だってできればあんまり考えたくないテーマです。しかし、いくら順調でも明日死ぬかもしれません。まさか明日自分は死なないだろうと思っている人でも実際次の日に事故や災害などで死んでしまう場合もあります。そてはとても悲しいことですが。

死ぬという当たり前で大切なことを多くの人はいつの間に忘れてしまっています。と同時に私たちは今を生きているわけです。それはまぎれもない事実です。私はもっと生きてることを楽しみたいと思ってます。しんどくがんばるのではなく、もっと幸せに、楽に生きてもいいんじゃないかと思っています。ただ現状をあきらめるのではなく、楽にやりたいことを成し遂げるのです。

今まで私たちは苦労すること、努力すること、がんばることに慣れすぎたため違和感を覚えるかもしれません。その気持ちはよくわかります。私だって昔はそのように思い込んでいましたから。ただ今を楽しめば、未来を犠牲にするのではなく、結果的にこれから先もより充実してすごせる方法だってあるのです。

少し考えてみればわかるのですが、今を充実して生きることで未来が不幸になるなんて限らないのです。しんどくなれば休む必要あります。休むということはとても大切なことです。しかし必要以上にただ何もせずじっとしているということは苦しいものです。自分を必要以上に抑えつける状態です。人は動きたいという欲求を本来もっています。今を充実させるということは未来をあきらめることではないのです。今を充実させることで、さらにそれを土台として未来を楽しんでいくのです。

しかし現実によりよく生きたいと思いながら実は、反対に自分を苦しめている場合がいかに多いことか。


同じ日本に生きていいても、とーてもお金持ちでも、苦しんでいる人もいれば、逆に最低限のお金しかないけど、楽しんでしている人もいます。

なぜそのような差が生まれるのでしょうか?

実は、苦しんでいる人は「自分の思い込み」によって自分を苦しめたり、必要以上に行動を抑圧したり、逆に無理に自分を動かしたりしています。同じ仕事でも苦しみながら毎日している人と、楽しみながらしている人ではどちらが健康的かは想像のつくところではないでしょうか。

そして楽しくてしかたがなく仕事している人と、いやなことを無理やりがんばっている人は結果の上でも楽しくやっている人には勝つ見込みは少ないでしょう。苦しみながら仕事をしたり、生活をして体調を崩す人を私はたくさん見てきました。もう一度、これからこの本を読んでもらいながら考えてみてほしいのです。

果たしてよりよく生きるための自分の考え方は本当に自分を助けているのか。苦しめているだけじゃないかと。

思い込みや習慣が違う方法を発見したり選択していることを邪魔しているのです。もし現実に、今よりも、少ししでもよりよい結果を楽にだせる方法があるのならば、それを選択してもいいじゃないですか。


思い込みを捨てろという人もしますが、人は何も考えをもたないということはできません。正確に言うとできないことはないですが、無になるということは、難しいものです。何も考えないでおこうと思うと、すでに「何も考えない」と思考しています。

つまりなんらかの思考や「思い込み」は日常の中にあるということです。思い込みが悪いことでなく、1つ、もしくはすくない選択の中でしか選んでないということが問題なのです。自分にあった思い込みは自分をよりよく生きることを助けますが、多くの人は本当はたくさん存在する思い込みを知ることなく、唯一正しいと思っている思い込みにとらわれ、その思い込みによって自分を苦しめているのです。

もちろん人の考えはさまざまですから、読んで自分の好きなほうを選んでもらえばそれでかまいません。ただ新しい考え方と、今までの考え方を選択してほしいと思ってます。今まで1つしかなかった考え方を、今度は自分で自分のために選んでほしいと思います。そして大げさでもなく、それぞれがそれぞの人生で少しでも満足できる選択をあなた自身でき、よい人生が送れるように手伝えればいいなと思っています。


多くの人はこのように生きれば未来は安泰だとか、安定すると思い込んでします。ほんとうにそうでしょうか。残念ながら地震や事故などは完全に防げるものではありません。誰にも先のことなんてわからないのです。私たちは今を生きています。過去でも未来でもなくて今を生きることしかできないのです。わからない未来に不安になったり、過去にこだわったりすることで今をおろそかにしています。未来がどうなるかは誰もが不安です。だけどわからないのです。今を大切にして未来につながっていくのです。今を精一杯充実して過ごせばいいんです。今を大切にした積み重ねが未来ですから。予測はできません。私たちのできることは今をどう生きるかだけです。


■あなたの生き方はあなたが決めていい
巷にあふれいるビジネス書は「このように生きなさい」と読者の生き方を否定しているようなものです。だから本を読んだときは一時的に感動した気持ちにはなりますが、続きません。なぜ続かないとかというと本に書いて「このようにしなさい」と書いているのは著者の人生であって、読者の人生ではないのです。そういう生き方を書いてある裏には人は同じものだという視点をもっています。

私はまったく逆の立場をとります。人はそれぞれ違うとうい立場で話をしていきたいと思っています。だからこの本の目指しているところは「自分というものを知り、自分の考え方を見つめ、そして今後自分はよりよく生きていくためにどうすればいいのか」と皆さんが、皆さんの人生を生きるために、どう考えたらいいのかという「考え方」やあたりまえのことを見直して「思い込みに」気づき、サポートできることを目的としています。

答えはありません。あるとすれば自分の中にだけあります。けっしてこの本の中でもないし、どこかの学者が書いたところにもありません。

もちろんそれらの本を参考にすることはできます。しかし読んでいる人はあなたなのです。だからあなたの考えがどう変わったか、もしくは読んでみて変わらなくても自分が納得できればそれが正しいのです。あなたの人生は私は責任がとることはできません。もちろんいくらえらい学者であってもあなたの人生に責任をとることはできないでしょう。私自身は私自身の人生の責任しかとることはできないように、あたなの人生もあなた自身しかとることはできません。

読んでいる人によって答えが真逆でもいいのです。一方の人生に役にたつ考えが、違う人に役に立つとは限らないからです。思考に正解はありまえん。思考は現実をよりよく生きるための道具です。

だから著者の言うことも常に疑ってください。言われたことを鵜呑みにするのはとても危険な発想です。言われた事をそのまま納得するのは何も考えていない証拠です。これから書くことはあたりまえだと多くの皆さんが思っていたことを論理立ててそれはただの「思い込み」であるということを検証していきます。

自分にもあてはめて考えてみてもらいたいのです。はたして本当に思い込みなのか、どうか。実は大切なのは結論ではありません。そうやってこの本と自分の人生を照らしあわせたとき、自分の行動を振返り考えることができます。そうしているうちに「考える」とことが自分の中でしっかりとしていきます。考えたうえで納得していただけるなら、ありがたいですし、納得されなくても私はうれしく思います。

実はどちらでもかまわないのです。自分の人生や経験を振り返ったり、実際の自分の状態をふまえて考えるという体験を積みかさねてほしいと思います。そうしているうちに今度はこんな本など必要なくても自分で考え出すことができるでしょう。そしてみずから行動し、その状況や現実をしっかり把握して適切な考え方を選んでいくことができるでしょう。もちろん本を参考にしてもらってもかまいません。しかし最終的にどの内容を選ぶのかもあなたの選択です。自分の人生を選択していると気づいたき、人は自分の足で歩くことができます。

この本では他の本より、あなた自身に問いかけるような質問が多くなっています。そのとき、どうか読むのを少し休んで考えてほしいと思います。答えに間違っているとかあっているといか言うのはどちらでもかまいません。たとえ自分が間違っていると思えば修正すればいいだけです。また修正することによってさまざまな事を学ぶこともできるでしょう。正しいばかりでは逆に何も学習することはできません。だから気軽に考えてみてください。考えてみた上で答えがなにもでなけれそれでもかまいません。大切なことは自分で自分の「生きる」を振返ることにあります。だから難しく考えないで気軽に楽しく質問に答えてもらえればと思います。学ぶということは無理に何かをするより、好奇心や興味をもって楽しく学習するときが効率的です。

この本をどうか皆さんそれぞれの人生に役に立てて皆さんそれぞれの人生のよりよい選択ができれば幸いです。


1章 僕らは知らないうちに思い込みに振り回されている
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コラム1 動きを学ぶ大切さについて 編集・追加しました。

06-18,2011

かなり乱れた文章になっていたので
見直して、編集しなおしました。
そこそこ変わってます。

よかったらもう一度みてくれればありがたいです。

コラム1動きを学ぶ大切さについて

ちなみにホームページの最初の文章も直しました。
ついでに見てくれたらうれしいです。

LCMACホームページ ホーム

シンプルに。わかりやすく。簡素に書いてみました。

たぶんまだ改良の余地はたくさんありますけどねー。

文章って難しい。
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そろそろちゃんと編集します。

06-17,2011

そろそろちゃんと編集します。

BLOG本 ぼちぼちでええやん

内容を見直しつつまた付けたしながら。

文章をわかりやすく、シンプルに。

そのときは読んでください。

ではでは。
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LCMACでコラム

06-12,2011

コラム書きました。これで三つめ。
よかった見てやってください。

一つ目が動きとは何か。

2つ目が学習とは何か

3つ目が生活とは何か。

そんな内容です。
案外まじめに書いてます。

これらはすごく大事にしているキーワードでもあります。

LCMAC コラムのコーナ。
LCMACコラムのコーナー

ではでは失礼しました。

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ノートパソコン購入

06-11,2011

Lenovo G475 14型 LEDバックライト付 HD液晶 ノートブック ブラック 4360-22JLenovo G475 14型 LEDバックライト付 HD液晶 ノートブック ブラック 4360-22J
(2011/03/08)
Lenovo

商品詳細を見る


パソコンが前から調子悪く、ついに壊れたので新しく買いました。
今の新しいパソコンから書いてますが、前に比べると明らかにさくさくです。

前は4年ぐらい前に買ったソニーのバイオで値段は15万ぐらいしたような
気がするのですが、今は3万弱で価格.comから購入しました。
性能も低すぎずそこそこの性能です。
OSもvistaから7に変わったこともいいのもしれません。」

一昔前は性能を抑えて安くしたネットブックが流行していましが、
今は安くでそこそこのノートブックが買えることに感動。

いいのもほしいですが、僕の使い方ではこれで十分です。
気が向いたらメモリを増設してみよう。




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接触と動きのセミナーに参加しました。

06-08,2011

触れると言う事がどういう事なのかを体験するセミナーです。

触れてみて感じる。何かをしようとするのではなく、ただ気持ちよく、ただ興味をもって。
そして何かが起こる。

忘れないように自分の気づきをメモ」
「自分の手の緊張は実は肩や脊柱の影響が大きいこと。」
「動かさなくてもただ相手に触れて待つという事でかなり大きな影響を与えていること。それを自分が体験することでより学習が深まった。」
「触れてどうなるのかなという純粋に好奇心として触る」という態度が深まった。
「触るだけでも姿勢が大きく変わるとこと」
「ハンドリングもまず一緒に動こうと思う前に、触ってみて何が起こるのか相手の反応を見てみる。いきなり動こうとするのでなく、待って最初のコンタクトで反応を感じとる。その時は何が起こるかなと好奇心で。それから動く。という選択も増えた」
「感じながら動こうとしていたが、まず触って感じてみる」
「自分は首の使い方がうまくない」

などなど沢山発見や気づきを得る事ができました。

発見や気づきはひとそれぞれですので、皆さん個々に色んな発見をしたと思います。

先生が僕の右肩から脊柱にかけてやさしくタッチしてもらいました。一瞬のタッチだったのにまだ右手の手の緊張が抜けて今も柔らかく触る事ができます。緊張が抜ければより手で感じることができますから、それだけでハンドリングの質も高まります。

また軽く手をおいて、一緒に触られている方が好きに自由に動く事でより積極的にお互いがそのプロセスを深めていくこともできそうで、そんなことも遊んで試してみたいなぁと思いました。ただ手をどこかに触れて後は相手がその影響を感じるままに自由に体をくねくねしたり、色んな部分を動かしてみる感じ?触れらている手に対して積極的に環境に適応していく行為をしてみることで、新しい動きも引き出せそうです。

とにかく試しにだれかやさしくじっとただ触れてみてください。何かが起こります。何が起こるかはわかりませんが。
何が起こるのかわからないからよけいに面白い。

楽しく学習する事ができました。

主催はこちらケアプログレスジャパン




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人はいつも選択している。

06-08,2011

人はいつも選択している。

多くの現代人はあまりに忙しい毎日を送っています。その中で毎日の生活を一生懸命送っているうちに自分が何をしているのか知らない人が増えています。そして成長していく中で、この社会で生活していく上でたくさんの価値観や思い込みが頭の中に入っていきます。人は賢くなりすぎました。頭で考えた事が、現実のすべてであるかのようにまで考えてしまうようになっています。そして頭で考えた正しさを自分の現実であるかのようにとらえ、その正しさによって自分で自分を抑制しています。
また多くの人は社会に反応していると思い込んでいます。例えば仕事や学校に嫌々行っていると思っている人も実はその背景は経済的な事情など色々とあるかもしれませんが、最終的に自分で仕事や学校に行く事を選択しているのです。嫌々ながらも自分の事を決めたのは自分です。仕事や学校などほったらかして旅行に行く選択肢だって実はあるのです。他にも仕事を楽しみながらする事もできるかもしれない。
多くの人は選択させられていると思っています。だが実のところ無理矢理動かされない限り自分で選択しているのです。実は生きていく上で無数の選択肢があり、無意識的にも意識的にあまりにあたりまえすぎて、自分が選択しているとう自覚さえ消えてしまっています。そしていつの間にか周りの状況なにただただ反応している状態を作って周囲の不満や不平ばかりを言って過ごします。ただただ反応しているのは自分で選択した問う事も気づかずに。

また仕事が嫌だという気持ちや、怒り、悲しみなども自分が選択しています。よく怒らさせられたとか相手によって影響を与えられたとういう表現がありますが、正確に言うと、相手は自分の反応するきっかけを自分に提供しただけで、最終的には自分が怒るとうい選択をしたということです。緊張しているときは、緊張する場にいるから緊張しているのではなく、最終的に自分が緊張していうのです。いつの間にか相手の行動や場面そのももに自分の感情があるようにとらえがちですが、実はそうではなく、自分の選択によるものなのです。

もちろん怒る問う事が駄目と言っているのはありません。怒りたければ行かればいい。我慢するのはあまり体にようありません。ただその怒りが自分の選択によるものだと認識してほしいのです。自分が怒りを選択して怒っているととらえるのと、相手のせいで怒っているととらえるのでは全く意味が違います。前者はたくさんの選択肢の中で自分がよりしたい反応を選んでます。また自分でコントロールがある程度できます。怒りを選択したくないと思えば、自分の行動や振る舞いを変えてみることで調整できるかもしれません。後者は何も選択できないし、相手の反応にばかり依存してしまします。相手は他人なのでコントロールできません。常に自分の感情は相手次第ということになります。

言い換えてみれば自分の足で自分の人生を生きているという事です。何か自分の人生なのにいつのまにか、自分の足で歩いている事さえ忘れています。そしていろんな道がこの先ある事も気づいていません。このままただ反応し、年を重ねていくだけです。それはなんてもったいない事でしょう。もちろん人生に正解なんてありません。家族のために一生懸命働く事を自分が選択したならそれでいいのです。自分がしたい事があるのに家族がいるから、家族のせいで我慢した。というのは自分で反応している自覚がありません。我慢したのは最終的に自分で選択したのに。また犠牲にしないで、したい事もできる方法もあるかもしれないのにその方法をないと思い込んでしまってます。

自分の人生は自分で歩くしかありません。そう自覚する事で初めて自分の人生を送る事ができます。そのためにこの本をきっかけにして、思い込みとらわれず、自分が気持ちよく生きる手伝いになればと思います。そうしながらまず自分が気持ちよく生きれば周りの人も気持ちよく生きるきっかけを提供することができます。
いろんな考え方が自分の価値観や思い込みであるという事に気づけば周りの人に押し付ける事もなくなり、お互いの違いを認めあう事もできます。みんな一緒でなきゃならないなんて単なる思い込みです。周りを見回してもらって同じ人がいるでしょうか?大切なのは違いを認め、お互いに尊重するということです。そんな社会になれば素敵です。








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