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休んだらいけないわけではないと

08-29,2010

なんか休むというイメージはサボるという事と関連づけてとらえられがちです。

僕も今仕事せずゆっくりしている毎日です。

ちょっとなんか負い目みたいなものは少し感じますけど。

あんまり気にしないために休むという事について考えてみました。


人は動いたら休むというのはあたりまえだと思います。

休むからこそ次動けるのじゃないかと思います。

休まないまま動くと体や心にきっと無理がでてきます。

だから休んでもいいじゃないですか。と自分に言い聞かせてます。


なんだかんだ言って人は、というか生物自体がそうだとおもいますけど、

常に動いているもんなんです。そして色々と感じ取っています。

昔学校の先生が言っていた話があります。

どこかの科学者がプールで耳栓をして目隠しをしてずっと浮いていれば人はどうなるかという実験をした話を聞きました。

正常な精神状態にいれなくなるみたいですね。あまりにもわけがわからなくなるそうです。

人は色んな事を動いて感じることによって精神のバランスを保つのかもしれません。


本来人は、生物は動きたいという欲求をもっていると思います。

じっとする事なんて逆に難しい。寝ている時でさえ動いてますから。

じっとする事ができる時というのは疲れている時だけです。

疲れが回復すれば動こうと自然にするものではないかなぁと思います。

今でもじっとせずぼーっとする事はできません。

何もなかったら退屈でしかたありませんから。

だからTVを見たりパソコンを触ったりするのでしょう。

結局一日なにもしてないようで何かをしているものです。

休もうと思ってもきずいたら何かしてませんか?


ただ中途半端に休むという事はしない方がいいかもしれませんね。

休む時は徹底的に休む。何もない空間にいると外にでてみたくなるものです。

そして何か新しい事を1つでもする事をお勧めします。

TVやパソコンもするのはいいと思いますが、それで疲れてしまうとまた新しいことするのに休む必要があります。

夜中までテレビを見ていて次の日が眠たくなるというのはその典型しょうか。

たぶん自分の中の容量は限界があります。多少伸び縮みはするかもしれませんが。

休む時は徹底的に休みましょう。

中途半端に疲れることはやめて、自分がしたい事や新し事をする力に使いません?

へろへろになって前に進むより、どんどん立ち止まってみる。

そのうちじっとする事がしんどくなってまた歩きたくなる。

そしてへろへろでは行けない道でも行く事ができる。

そいうものかもしれませんなー。
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知っているのとできるのは違う

08-24,2010

最近英語の勉強をしている時もあるんですが、よく実感します。

知っているのとできるのはまったく違います。

僕らは簡単な文法なんかは中学校で習います。

I have a pen.とかI am a student.とかこれがわからん人は少ないと思います。

では次の文を英語に一瞬でしてみてください。3秒以内で。

「この男性たちはアメリカ人ですか、それども日本人ですか?」 日本人です。

できます??

できたという人はすごいです。僕はなかなか苦労しました。

答えは何パターンもあると思いますが、

「Are those man American or Japanese? They are Japanese.」

という例文があります。

時間をかければこの例文を作るのはそんなに難しくありません。

ただ知っているのですが、使う程のスキルがないのだと思います。

スキルを磨くにはやっぱり練習しかありません。

勉強というよりもトレーニングの世界です。



これはなんでもそうかなと思いました。

例えば人に物を教えれる人になるのもやっぱりトレーニングです。ただ知識だけの勉強では難しいと思います。

だからとにかく経験を積んでいかなければいけません。

もしくは実践的な勉強をするしかありません。

どちらにしろとにかくするしかないんです。

勉強したらある日突然教師として教えられるのではなく、何度も失敗してスキルを磨くことが大切だと思います。

だから教師になるには教師をするしかないんだと思います。

名乗ったもの勝ちです。

本を書くのも本を書いたからその専門家になれるのじゃなく、きっと書いているうちに専門家になれるのだと思います。

なんでもやったもん勝ちかもしれません。

それがスキルを磨くことにつながるのですから。

やっているうちにその知識がスキルとなり身に着く事ができるように思います。

ただ、やってればいいというものでなく、常に自分を振り返りながら、勉強していくことが必要だとは思いますが。

もともと不器用なこともあって僕は知っているからできるとうところまで行っていないことが多いので、とにかくやっていかないといけないなぁと思ってます。

失敗はビビらないように自分に言い聞かせて。ちょっぴりずうずうしくいかないと。

「許可をもらうな。許しを乞え」の精神で。

度はあると思いますし、本当に迷惑な事はしていはいけないと思いますけど、僕の好きな言葉の1つです。
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最近肌が調子いい。

08-24,2010

最近肌の調子がものすごくいい。
環境を変えればこんなにも違うかというぐらい。

自分で体験したからよりはっきりと思う。
もちろん他にも要因とかあるんだろけど、あきらかに環境という影響は大きい。
また環境のとらえ方によるところもあるかもしれません。

やっと安心して日焼けしたり、かゆみとかにに悩まされることもなくなる。
普通に考えたら当たり前のことだけど、そのあたり前の事ってものすごく貴重です。

夏は好きな季節だったけど、日光をさけなければいけない事はちょっと悔しいことですし。

仕事を辞める事は健康の事考えてこれでよかったのだと思います。
お金はそりゃなくなるし、必要ですけど。

当たり前の健康を犠牲にはできません。
当たり前のありがたさを大事にしていきたいと思います。

仕事を辞めるのも続けるのも勇気です。

それがよかったかどうかは結局これから次第なんかもしれませんね。

誰かが言ってました。

仕事が厳しいもの、楽しくないものって誰が決めた?と

なんかこの言葉が頭に残ってます。

サボる=楽 という考え方は間違っているように思います。

サボる事が必ずしも楽だとは思わないし、楽だからサボっているとはかぎりません。

もっと生き生きと生活する方法ってあるように思うんですよね。





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組織とみんなは違うの?

08-20,2010

全員、全体を指す言葉であるが、「組織の為に」と「みんなのために」ではニュアンスが違うように思う。大きな違いは組織の為と言えばなにか下の物が犠牲になっても上の物を維持しようとい雰囲気が伝わるが、(実際そのような状態が多い)みんなの為にというと一人、一人の為にというニュアンスがあると思う。

組織は一人、一人が集まったもので、組織の利益はみんなの利益にならないといけないと思う。「組織のため」という発言が本当にそこに属している人全員の為になっているのかもう一度考えよう。組織のためといいながら、結局一部の利権だけでないか、「組織の為に」を発言している人は注意したほうがいい。そういう人ほど、結局自分のためにしている事が多い。

みんなを大切にできない組織なら何の意味があるのか。もちろんがんばっている人は優遇されていい。がんばっている人が認められない事が問題だと思う。あきらかに不正を行っている人を優遇しろという気もない。そういう人は逆にがんばって皆のために働いている人にとって失礼だと思う。平等主義とかを主張するつもりはなく、上部のものだけ不正に利益を得ている、自分の利益だけを考えている、または弱い者に全部責任を押し付けた
ことが気に入らないだけ。そういう時にかぎって都合のいい正義を持ちだし正当化する。上に立つ人がたくさん給料をもらっているのは組織に所属しているみんなが幸せになるためではないか。だから利益の分配量が多いのではないか。そしてその組織を社会の役に立てるように出来るからでないか。

 どんな言葉を使うかによってもその人の無意識的なメッセージがあるものです。まっとうにに生きているみんなが幸せになれる組織ってステキ。
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Did you know? あなたは知っていましたか?

08-17,2010

最近少し話題になっている動画を紹介します。

Did you know 2.0

Did you know 3.0

Did you know 4.0


どこまで本当かわかりませんけど、この動画によると世界はとてつもなく変化していっているみたいです。


皆さんはどう考えますか?

もし本当ならこれからどう行動していきますか?

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趣味を見つける時に忘れてはいけない話

08-14,2010

 みなさん趣味がないけどなんかしたいという人いませんか?僕も趣味をなにか持ちたいとおもってます。だけど趣味を始める上で何を選んだらいいのかわからなくないですか?また介護や医療で趣味を援助していても何かピンとこないことがあったり。今回はちょっと視点を変えて趣味を考えてみたいと思います。


 よく人生のいきがいとして趣味をもつという話が多いですが、本当に趣味が生きがいになるのだろうか考えて見たいと思います。yahoo辞書で「趣味」を検索してみました。それによると趣味とは「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。」と定義されています。では本当に個人が楽しくすればそれが趣味になるのでしょうか。また趣味として行えばそれでよいのでしょうか。趣味を個人的な視点だけいいんでしょうか。


例えば趣味を援助する時、この人の好きなことをしなければならないと(花を育てる等)本当に満足するのでしょうか。決して個人的に花を育てるだけで満足しているわけでなく、一緒に花を育ててくれる人、それを見てきれいと喜んでくれる人などがいるから充実した趣味になります。つまりかかわる人がいるからの趣味なんです。関係の中で趣味をしているのであって、けっして一人でする訳ではありません。一人でする趣味でもどこかで関係を求めている物です。つまり一緒にしてくれる仲間やそれを喜んでいる人がいて初めて成立する物だという事です。また趣味以外の人間関係が完全に孤立していては趣味を楽しむことは難しくなります。むなしくなることもあると思います。例え1人でするものであっても、帰ったら家族がいたり、友人がいたりするから普段出かけたり家で趣味を楽しむことができるんじゃないでしょうか。


趣味があるというのはその人の人間関係も含めての趣味です。そこに新しい出会いや発見、人間関係の豊かさがひろがるから楽しいのです。同じ事をしても一人でしても楽しくないし、嫌いな人としたらなおさら楽しくない、またそれを半強制的にされていても楽しくないはずです。趣味を援助するならそこまで考えて援助する必要があります。何がしたいかということも含め、どういう人間関係を援助していくのかを考える事が大切です。


また趣味を始めたい、続けたいという人も人間関係を豊かにするための活動を行ってみるのも一つです。そこに人間関係ができるとそれが自然と趣味になります。続く時というものはそれ自体がおもしろいというよりも、そこに豊かな人間関係があります。(間接的にも)好きな人や仲間とするのはどんな事でも楽しいものです。それがないといくら楽しいからといってもひきこもりになり、周囲とかかわることも少なくなり意欲が低下してしまいます。趣味なんて何をしてもいいんです。それをする周囲の人間との関係のほうがよっぽど大切です。
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生活モデルやICFで誤解されがちなもの。

08-13,2010

 今回は少し専門的な話。リハビリの職種の人とかかわって思う話です。リハビリの人はかなりの割合で生活モデルやICFとらえ方がヘンな場合があります。僕も完全にわかっているわけではないのですが、かなり矛盾を感じる事が多いです。
 現場でも医学モデルに引きずられて生活モデルが結局、医学モデルの少し変わったものとしてとらえられがちです。だから多くの場合生活モデルについてしっかり考えることなしになんとなく医学モデルを中心にした生活援助が行われているように思います。
 講演を聴いても生活モデルではなく、医学モデルではないか。と思うことがたくさんあります。医学モデルが悪いと言っているわけではないです。どっちがいいか悪いかなんて事を言うつもりはありません。大事にはのはその人にあっているかどうかです。医学モデルが必要な時もあります。よく言われてますが、手術中であれば医学モデルのほうがありがたい場合だってあるかもしれません。急性期の場合だって医学モデルのほうがあう場合も少なくないと思います。僕らが病院に行く時だって医学モデルで問題点を見つけてもらって薬で治療してもらっています。
だからどちらがいいか、わるいかではないんです。ただ自分がどういうポジションでケアなり、リハビリなり医療なりを提供しているということが曖昧になっていて結局なにがしたいのかよくわからん状態になっているような状態になっている事が多いように感じてます。


医学モデルから生活モデルのアプローチへと最近よく言われています。同時に人のとらえ方もICIDFからICFへ変わっていってます。名前は変わってますし、図も以前のICIDHに付け足したようなものですが、中身は非常に大きく変わっているんです。人のとらえ方が違えばすべてが変わります。僕らのあり方さえも違ってきます。その辺もっちょつめて考えていきます。
 くわしくは長くなるので書けませんが、医学モデルは問題点抽出→そこにアプローチと言う流れで、生活モデルはありのまま状態を把握→目標を立てる→課題分析という流れになります。とらえ方が変わればまったくちがいます。
(生活モデルは生活の質を上げる事を目的にした援助、ICFは人を全体的にとらえる考え方です。ICFでその人となりをとらえて生活モデルの考え方で援助するというのが一般的だと思います。)


とりあえずあの図(ICFの)を思い浮かべながら読んでください。
参考サイト ICFってなんだろう PDF
これを参考にしてもらったら少しわかりやすくなるかもしれません。


よく誤解されがちなものを書いてみました。



1、ICIDHからICFになり図の中にある矢印が一方通行から相互方向に変わったのはかなり重要なことです。
矢印が相互方向なので互いに影響している事を表しています。図はすべてに対して相互方向なので1つの要素が変わればすべての要素が変わるという事です。つまり互いにすべてが関連している事を意味しています。関連付けができないと生活モデルの概念を使えていないことになります。そうでなければ単なる活動・参加・心身機能・環境・個人に分けて満足してしまっています。
 大切なのはそれらが関連している事です。たとえ関連づけをしても一方向の関連づけで終わっている場合も少なくありません。もしくはすごく範囲が狭い関連づけになってしまっている。相互に関連づけながら「流れ」をとらえる事が生活モデルの概念として大切な事です。この流れの中でどう各要素が影響しあっているかを考えます。個々の要素だけではとらえない事は大切です。


2,環境因子があるという事は状況によってまったく変わるということです。
環境因子があるという事は、人は状況によって変化するし、今と明日、もしくは一時間後では違うということです。つまり人を固定的にとらえないということになります。環境というとただ物的なものを環境だととらえたりしがちです。環境を幅広くとらえ、その環境と個体がいかに適応するかとう視点でとらえていく事が重要です。個人をとらえるばかりで環境はおまけになっている場合が多いと思います。評価テストを使ってもそこに観察者の影響、状況を含んでとらえることができていません。また意欲がないという事は環境と個人の相互作用の結果であって、個人に一方的に原因があるわけではありません。僕らのかかわりがその状態にさせた要因もあります。
もちろんその一部は個人の特性にあるが必ず環境にも要因があります。死にたいと言えばそういう状況にあるということです。ご飯たべたくないと言えばご飯が食べたくない状況や、そういう認識に環境側が影響を与えているといこと。人がどう思えるかも半分は環境に原因があるんだと思ってもらってもいいと思います。死にたいと・ご飯食べたくない・本人が言っているのだからはいそうですか。じゃありません。
 色んな要因が関連付けられるなかで生きていてもしかたがないという自己認識に変わっているわけです。そういった存在に周りがしています。無意識的なフィードバックを与えているという事です。
 つきつめていくとICFは「人」と「環境」という項目だけでもいいんじゃないかと思えるぐらい環境は大切だと思います。


3、個人因子があるという事は質をしっかり見るといことです。
 個人因子があるという事は単にその人に趣味・趣向うんぬんじゃなく、すべての事がその人の気分や気持ちや・思いによって変化するということです。やはり環境因子と一緒で人を固定化してとらえてはいけないという事でもあると思います。
 同じ事をしても状況や気分によってその内容が違います。何がよくて何がいけないのかなんてすぐに変わります。なので量だけでは見る事ができません。つまり質的な部分を把握しなければいけないということです。多くの場合量の把握(どれくらいできるか、もしくは何点なのか)でしか判断できていません。自立していたら満点ってちょっとおかしいと思います。自立していてもそれが無理やしさせられている場合もあるし、苦しみながら行っている場合もあります。一部介助でも気持ちよく行えている一部介助もあるし、無理やし動かされている一部介助だってあるわけです。食事でも1人で誰とも話すことなく行う食事は寂しいものです。もちろん時に1人で食べてもいいし、ずっと誰かと食べなければいけないわけではありません。しかし1人で食べることができるからといって満点とされてしまうのは、あまりにも単純に生活をとらえてしまっています。
そうはいっても皆しつを見なく量だけで判断してしまいがちです。同じ点数になってそれですべて判断されるか、もしくは少ししか考慮されていない場合が多いです。質は量の中でしか生まれませんが、質は量と同じぐらい、もしくはそれ以上に大切なものだと思います。多くのリハビリ職は質というものを考慮にいれてません。
 その注目されてない質も全体に関連しているので、当然健康や心身機能にも影響があるということです。それなのにあきらかに質的部分が軽視されていること多いです。例えばおいしく食べる事がただ栄養をとることだけになっていたり、風呂に気持ちよく入る事が単なる清潔保持、リハビリだって意味もわからずさせれている場合も沢山あります。(無理やりしたらそれはたんなるいじめです。)ただ栄養をとって清潔を保ち動く、そんな人間観では元気にならないように思います。人は食事も入浴もそこに楽しみや笑顔があってこそ元気になるのだと思います。


4、僕らはあくまでも環境です。自分の在り方が相手に影響を与えてます。プラスやマイナスをこちらで決めないでください。
僕らは人を援助する上で無意識的に自分の価値観を人に押し付けてしまっています。自分の質は自分の中にしかありません。当然相手は相手の中にしか質を見いだせません。よくありがちな事ですが、これが援助する側がこれが正しいと相手に押し付けてしまう場合があります。これもリハビリ職は多いです。特に自分はよくできると思っている人ほど多い。
よくプラス面をみるのが生活モデルだといわれますが、実はそうではありません。いいも悪いも判断することなくただありのままとらえるということだと思います。正しい事・悪い事なんてもものは相手が決めることで自分が決めることではありません。+や-面というのはこちらの都合で決めていませんか?問題点をあげる事はつまり勝手に援助者が自分で決めているということで生活モデルの支援にはあてはまりません。いろんな状況がありますが、それをよいか悪いかを判断するのは本人です。こちらで勝手にプラスやらマイナスやら決める行為は相手の生活や本人そのものを否定する行為です。そんなかかわりをしている事自体が相手の主体性を奪う行為を無意識的にも援助がしているのです。大事なのは相手をありのままとらえ、そして今後どういう生活ができるかという目標を考えていくことが大切です。そしてその人の生活を一緒に作り上げていくのです。問題点なんてものはありません。それは医学モデルで行えばいいことです。
 その人を変える事はできません。生活モデルにおいてその人にとって僕らは環境ということになります。環境が変化する事によってその相互作用により、本人が変化するんです。つまり援助する僕らが変化することです。その変化により相手が気づき自ら変化していくんです。人を変えようとする時点でICFや生活モデルの概念にはずれています。
つまり自分の在り方や自分の価値観が相手に影響を与えています。相手がどうのこうのというより、まず自分の価値観なり、あり方なりを見直おす必要があるんじゃないかと思ってます。いつのまにか自分の勝手な価値観を押し付けている場合がおおすぎです。


4、その時、その時のその人をとらえる。
ICFや生活モデルは人は変わるもの、分からないものという前提があります。相互作用の中で各要素が複雑に関連しています。そして時間や状況によっても変化していくもんです。人は固定的ではないという前提にあり完全にはわからない。ということです。これをすればいいのではありません。人はすごく複雑なものです。わかったという思いこみがあると相手をもう見ることはしません。医学モデルは人体をロボット的にとらえ修理していいくイメージであるますが、生活モデルは人を複雑な1つのシステムの中(それを簡単にとらえるためにICFがある)でみているので絶えず相手の変化をとらえこちらがらの対応も柔軟に変えていくことが大切です。決まり決まったアプローチができずクリエイティブに考えていく必要があります。
 人それぞれの人間臭さ、生々しさ、汚さ、思い、多面的、すべてが健康に機能に影響する事を理解していません。ただICIDHから環境と個人の要素を足せばいいのではありません。医学モデルから生活モデルへ変えるという事は評価の仕方、アプローチの方法、普段のコミュニケーションなどすべて変えていかなければなりません




よく生活モデルは医学モデルに比べて機能を深くみないとか言われることもありますが、それは違います。生活モデルやICFは広く浅くじゃなく、人を全体的にとらえ広く繊細にとらえていくための考え方です。上手く使えばかなり使える道具だと思います。
 障害をもっている人だけでなく、僕ら自身にも使える考え方でもあります。障害だって人それぞれ違うのにその人たちだけに通じるものはないように思います。あってもかなり限定的な使い方をするしかありません。もっと人と全体(もしくは生物全体)に使える可能性が高い考え方が本物だと思います。
自立支援・ICF・在宅復帰・リハビリ・地域など聞こえのよい言葉だけに振り回されたらいけません。大事なのはその人が自分自身の生活や人生をどう感じるかという質であって、その人が主役だという事です。
そして僕らは環境でしかありません。環境しか変われません。環境が変化しその相互作用のなかで個人と環境の環境適応を図ってくか。環境適応が上手くいくことで個体が生き生き自らしていきます。これが生活モデルを使って援助するキモのところです
これを理解して初めて実用的なICFや生活モデルが使えると思います。


あんまりえらそうなことは言えませんが僕はこう思うわけです。


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あきらめのICF


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蚊に刺さされてふと思った話。

08-06,2010

tokyo view
by w00kie

ベランダで蚊にさされた。

外を見た。建物が見えた。

沢山の建物があってそれぞれが光っている。

人は色んなものを作っている

だけどこれは僕の頭の中のイメージでしかない。

人は実際目にしたものをそのまま受け取る事はできない。

目から見た情報を結局は脳みそが処理して頭の中でイメージしているだけ。

蚊はそんなイメージがあるんだろうか。

わからないけどきっとない。

できてもたぶんわずかだろう。

僕らは頭の中で様々にイメージする事ができる。

僕が見ている世界も実はイメージの世界でしかない。

だけど人はイメージするからこんな街並みだって作ることができたんだと思う。

イメージできなければ今の世界はきっと存在しなかったのだろう。

あながちイメージと現実は離れていないのかもしれない。

人は宇宙にもいけるようになった。

宇宙に行く事をイメージしたからいけたのだろう。

それは沢山の困難が伴ったのかもしれない。

だけど最初にイメージしないとないも生まれない。

限られたワクの中でイメージしてしまうと、それ以上のものを実現することはできない。

自分が望む生活はイメージすることから始まるのだろう。

蚊はきっと自分より限られた枠の中でしかイメージする事ができない。

僕らはこの眼や体を使って蚊よりも沢山の物を感じ見る事ができる。

そうすればより沢山の事をイメージできる。

それは自分の新しい世界を作るきっかけとなる。

蚊は新しいものなんて作れない。当然宇宙にもいけない。

血は吸われたが、まあいいか。


※ちなみに写真はイメージです。
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人は感情で判断し正論を話す

08-03,2010

「人は感情で判断し正論を話す」
それがいいと判断するのも自分の主観です。この世の中で何が正しいかどうかなんて自分基準しかありません。



人を説得するのに一生懸命理屈を考えてもあまり効果ありません。
正論をゆってもダメなんです。
感情で判断するなら感情に訴えかける必要があります。
正論を言って相手を追い詰めても結局逆効果です。



逆に人から正論を言われても、自分の感情で納得できないこともあるわけです。
気分がすぐれない時や自分に余裕がない時に言われるとちょっと腹が立つこともあります。
こちらも感情で判断してしまえばどちらが正しいのかの正論の言いあいです。
お互い感情で判断するから、腹を立ててしまってお互いの事を否定してしまいかねません。
そして自分を正当化しようとして正論を言う。やっぱり泥沼ですね。お互いボロボロです。もう。



人は感情で判断する。まぁそういうもんだと思ったら非常に楽です。
あきらかな矛盾に腹が立たなくなります。
だからと言って相手の正論をすべて受け入れる必要はありません。
そうなれば自分がしんどくなってしまいますからね。



ちょっと別の視点からそれをみてます。
自分の意見や相手の意見が正しいかなんてどっちでもいい事です。
ようは自分の意見を相手が「それいいね!」と判断してもらえればそれでいいわけです。



人は感情で判断するという前提をしっかり理解すれば色んなプランが練れますね。
好きな人に言われる意見と嫌いな人に言われる意見では同じ内容でも受け止め方は大きく違うはずです。また自分に余裕がない時と仏のように穏やかな時では意見の受け止め方が違いますよね。突然聞くのと、あらかじめ耳にいれておくのではまったく違います。「そんな話は聞いてません!!」と怒りを出してしまえば、その後スムーズにいくものもいかないですよね。



相手の立場にたって感情的に「それいいね!」と思ってもらえるにはどうしたらいいのかクリエイティブに考えていきます。人それぞれ違うので決まり決まった方法はありません。
ちょっと違う視点に立てばまた面白いもんです。



正論では人は動きません。人は感情で動きます。
皆さんもそう思いません?特に仕事してたらそう思わないですか?
僕はそうです。感情で動きます。ワクワクしたり、好奇心がないと明らかに行動が鈍ります。楽しかったら他にもしてみようと思います。逆に緊張してたら動けなくなります。
そういうもんです。ただそういうもんだと言いたかっただけです。



お疲れした。
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