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なぜ人を触る時、自分の動きが大切なのか

10-24,2012

人への接触や触り方を勉強しようとするとき、
ほとんどの人は相手の動きや接触面の手にだけ注意が向きがちです。

しかしそれではあまりうまくいきません。


触る時というのは
必ず何らかの姿勢をとり、自分を組織立ててから触っています。

自分の体全体の使い方がまずいと
おのずとタッチの質もまずくなります。


つまり自分の動きをうまく整えることができるほど
タッチやハンドリングがうまくできます。
しかし多くの人はうまく自分を整えるところまで触るとき注意がいきません。


また人の動きを手伝う時
やはり多くの人が手で動かすと誤解しています。
質のよいタッチやハンドリングは手だけで動かしているわけではないのです。


むしろ
手の力をほとんど使いません。


手には感覚器が沢山ついています。
手は動かすためよりも
相手の動きを感じるセンサーです。


しかし手のみで動かそうとすればするほど
手に緊張が高まり本来の
センサーとしての機能がなくなってしまいます。


ではどうすればいいのか。

それは


自分の体全体をうまく使って
ハンドリングするのです。


やはり全身の使い方が大切になります。
手で動かすのではなく、


自分の全身をうまくコントロールできた時
より質のよいハンドリングができるでしょう。

ということは、まず
相手の動きを見る前に、自分の動きにしっかり注意を向ける必要があるのです。


キネステティクスベーシックコースは
自分の動きをしっかり理解するコースでもあります。

自分の動きを勉強する事を抜いてしまえば、
介助を含めハンドリングが質の良い役立つもにならないからです。

介助方法やテクニックや理論を机上で学ぶだけでは、患者さんや利用者さんをほんとの意味で
人として動きを助けることはできません。


リハビリテーションのアプローチも同様です。
患者さんに触る時、手で触れるにしても、必ずなんらかの体位をとって自分の動きを使うのですから。
よい理論を生かすためにも質の高い接触が必要です。

自分の動きが知らず知らずのうちに患者さんや利用者さんに影響与えています。
それは考えているよりも大きな影響を与えています。


人はロボットではありませんので、やり方だけでなく、
自分の体を通してもっと本質的なものを学んでいく必要があります。

まず自分の動きの理解からは始めましょう。
そこから丁寧に学習を積み上げていくことをおすすめします。

そして楽しく学んでいきましょう。


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人は微妙なバランスの中で生きている

07-16,2012

※付け足しました。2012年7月25日

人はバランスを保っていきている。
ある幅から、ある幅まで常に揺れながら生きているのだ。
実際に立っている時わずかに揺れているが、これは健康についての話。
(立っている時完全に止まれないということが、常に人は揺れているという証拠になるのだけど)

その揺れ幅を超えた時、体や心に大きなトラブルが生じる。

例えば度を超えた元気すぎることが常に続く場合
これも一見いいかもしれないが、常に元気でも度をこえると躁状態になり社会性が上手くいかない。
考えてみてほしい、空気が読めずずっとテンションが高い自分自身を。
また常に笑っているということは、情緒的な感情を捨てていることになる。
常に元気でいるということはある意味、ものすごく薄っぺらいものになる。

テンションが高すぎる状態というのはある種とても危ない。
体に常に大きな負担をかけるだろう。人によって様々だが常に血圧が高い状態だったり、呼吸が浅かったり、消化器系にトラブルがでやすかったり、脳も動いているようで深い思考などもできない。色々なことが考えられる。

逆に疲れがたまりすぎたときやストレスがたまったときは
何か不調が心や体に起こる。
たとえば皮膚に発疹ができたり、うつ状態になったりする。
こちらはわかりやすいと思う。


健康とはある種、この振り子みたいなものではないか。
生活というなの振り子だ。

小さい揺れなら、簡単にケアすれば戻ることはできるし、
大きく揺れても、時間をかけてケアすれば反対側に戻る。

しかし振り子が大きく一方に振り切っているのに、症状だけ薬や手術などをしても根本的な解決はしない。
それらはこれ以上ひどくならいために必要なことはあるが、それだけでは駄目だ。

振り子を戻す過程が必要なのだ。

もうそれ以上無理をするのではなく、振り子が戻るのを待たなければならない。
振り子を真ん中で止めればいいというかもしれないが、
生きていることは揺れていることなのだ。
振り子が止まる時は死んでいるときだ。

常に人は揺れている。
時に大きく揺れても戻ってこれればいい。
常にバランスをとればいい。
それが健康のコツだと思う。

一方に常に揺れすぎると、バランスが崩れて戻りにくくなる。
常に自分がどのようにゆれているのかを知り、自分の生活をコントロールする。
大きくも小さくても揺れていればいい。だめなのは片方に振り切りすぎている場合だ。
それは振り子は止まっている。つまり死んでいるのに近い状態になる。

疲れているなと思うとき、ゆっくり体をいたわってほしい。
逆になんとなく家で過ごす時間が多くなっているならどこかにでかけてみよう。

自分の振り子に注目してみよう。
そしてバランスを保ってみよう。
そうすれば、健康的に過ごせるかもしれない。

自分は健康だと思って、その健康が安定しているものだと思うかもしれない。
でもそれは錯覚だ。
常に微妙なバランス上でなりたっているのだ。

皮膚だって起きている時に痛め、寝ている時に回復する。
そのバランスが崩れると皮膚に発疹ができたりする。

がん細胞でさえ、毎日僕らの体にできているが、免疫系が
きっちり処理をするからがんにならないのだ。
そのバランスが崩れると、あまり想像したくないことになる。
ですから手術でがんを完全に取り除いても治ったことにならない。
振り子のバランスをもとに戻す過程が必要だ。

テレビでも歌舞伎役者ががんになっていたが、アナウンサーがその人に対して
「手術して早く前のように活動されるといいですね」
というよくコメントで話しているし、この人も悪気があるわけでない。

ただ前のような生活が振り子のバランスを崩しているのだから、
前と同じような生活をしないようにすることをおすすめしたい。
自分をいたわりながら活動できる生活に変えていくことが必要だと思う。

体はすべてにおいて気づいてないうちにバランスをとっている。
自分自身で邪魔しないようにして、みんな健康的に過ごしてください。

その人らしさとは何か

04-23,2012

その人らしいというと、普通ある限られたイメージをイメージすると思う。

しかしその人らしさを援助するということは「限られたイメージ」に近づけるのとは全然違うのだ。

らしさなんてものは他人が勝手に決めつけたイメージにしかすぎない。

その限られたイメージで人を見ると、その人の他にある素敵な部分を発見することを邪魔してしまう。

また関われる側としても、限られたイメージで接せられると、非常に窮屈だ。あなたはこういう人ですねと最初からラベルを貼られるように扱われると、無意識的に何か変わることを許されないような、もしくは少し無理してでもそのラベルにあわせようとしてしまう。

その人らしさを援助するということは、どんなあなたでもあなたですよ。という事を援助することだ。

そうする事で人は可能性を閉じることなく、新しい自分を発見することができる。

けっして人を限られたイメージにとらわれる必要はない。

だから、目の間にケアを必要としている人に対して、昔の情報になんてこだわりすぎる必要はない。

もちろん参考にするのはかまわない。ただ昔好きだった物が、今はそうでもないことも多いのではないかと思う。

人は変わるのだから。

今、色々試してその人の可能性を広げていけばいいんじゃないか。そしたら昔以上の物が見つかるかもしれない。

これはそっくり実は自分らしさにも言える
ついでに昔書いた記事もよかったら見てほしい。

自分らしさとは何か

自分らしさとは何か(別の記事)


比べること

04-13,2012

自分の能力がどのくらいからわからない時は
周りと比べてみよう。

人は比べずにはいられない。
「長い」「短い」
人は何かをみて長いという時、なんらかの基準で判断している。
小さい子供が持った3メートルのひもを長いと思っても、地球の長さと比べるととても短い。


人は比べるから自分がどこにいるかがわかる。
比べるからこそ、自分が何かわかるのだ。

時々比べることはいけない事だという人がいるが、
それはおかしい。

そういう人は焦点がずれている。
比べること自体になんら悪意があるわけでない。

比べることと、
それをどのように思うか判断することは
まったくの別だ。

ここがごちゃ混ぜになってしまっている。

比べることに意味付けしてしまうことがおかしいのだ。
意味付けする前はただの「差」でしかない。

多くの人は意味をつけたがる。
1位と2位で比べたり。だた違うだけなのに。
1位が価値のあること
2位は1位よりおとること。

だれが1位の方がいいと決めたのか?
運動会で短距離を走って1位の子がただ足が少し早いことが比べてわかっただけなのに。
1位になったからといって、その子は幸せな生活をしていると限らないのに。
足が速いことで、無茶をして交通事故にあうかもしれないのに。


実は意味をつけたがる人の方がそういった意味を他人に押し付けている
1位じゃなかったらかわいそうだからみんな同着にしましょうなんて平気でいう。

この話が馬鹿げているのは、勝手に2位以下の存在をかわいそうだという自分の価値観を
子供たちに押し付けていることに気づいてないのだ。本人は子供を守るつもりでいるのだが、
実はそういった価値観の物差しを子供に伝えてしまっている。また同着にすることで
せっかく人と比べて自分の事を知る機会を奪ってしまっている。

走った本人が2位でくやしいと自分の価値観で思えるなら、そこに執着する必要はないがそれはそれでいい。自分が満足できるよう、自分で「差」に意味付けするならかまわない。ただ外野がそれではだめだといっていると、ますますその子供は自分で考える力さえ奪われてしまうし、比べないことで自分の特徴がいつまでもわからなくなる。一つの価値観のままで生きることで、他の比べ方を知らないほうがその子供には大きな損失だ。

比べる事を否定するひとほど案外無意識で他人との違いを認めることができないものだ。
同列の順位じゃないといけないという人ほど、価値観を押し付けることに熱心だ。そういう人ほど
1位というものにこだわりをもっている。そんなものうちの子供には意味のないことだと
思えば全員でゴールしましょうと激しく主張することもない。
同列でゴールしましょうという人が一番、1位にこだわっている。

何も平和的に2位でもいいじゃないか、あはっはーといっている訳ではなく、自分の違うフィールドで活躍できることもあるし、そうするためにはやはり相手との違いを知り、自分なりの戦略を練っていく事が必要だ。2位になったらなったで、ではどうするか?早く走ることについて興味がもてないなら、違う物で何かを行ってもいい。人は自分の戦略で生きていくことが必要だ。みんな同じ方法で生きる事はできないし、特に今の時代はそのような状況になってきている。だからいつまでも一つの価値観のこだわりすぎるといつか足下をすくわれかねないよという大変厳しい話だと思う。価値観なんでものは自分でうまく選んで使えばいい。幸か不幸か、人はそれぞれの特徴をもっている。その特徴を無視して生きることは、この社会を生き抜いていことが不利になる。一見人より劣っていると思うものもあるかもしれないが、それはただの特徴なのだ。できないといって駄目だと意味付けする必要はない。できないというものただの特徴にしかすぎない。

自分の特徴を人と比べること。しかしそこに人よりも劣っているとこ思う必要はない。他人のほうがハンサム?そんなのは人が見たら変わる。外人がみたら大きく変わる。他人の方が頭がいい?テストなど脳の機能一部分だけで判断しがちだ。悩みがない人は元気でいい?悩むことはそれだけ物事に深く気づけることでもある。このようにほとんどの価値観なんて否定できるし、逆に肯定もできる。

大事なのはただそこにあるのは違いだけだ。違いをとらえ、自分の特徴を把握すればより楽に自分のしたい事ができるようになるだろう。比べる事を恐れちゃもったない。






数字について知ってほしいこと

03-15,2012

数字をつかえばいいという風潮が世の中にある。

特にリハビリ業界、医療、介護業界なんてもそうだ。

だけど多くの場合「数字とは何か」というものをあまり把握せず使っているように思える。

時に数字を使っている事で自分は難しい高度な事をしているという認識にさえなってしまいがちだ。

そもそも数字って何なのだろう。

ちょっと掘り下げてみよう。

皆さん「1」と見た時に何を想像できるだろうか。

たぶん少し困惑する人がいるはず。

では「1」というものに情報がどれぐらいあるだろうか。

これも少し困惑するが、それが当たり前だ。

「1」という情報は「1」という情報以外ないのだから。

それ以上でもなく、それ以下でもない。

それをふまえて「1つ」というものを考えてみると

「何かが1つ」という情報しかない。

ここで簡単な足し算をしてみる。

コップ1つと時計1つで合計はいくらだろう。

当然2つだ。

では前の足し算を忘れて、この「2つ」という数字だけに注目しよう。

これは何かが2つだという情報しかない。

どんな情報が抜け落ちているか。

コップと時計という情報は数字にすることによってすっかり抜け落ちてしまっている。

仮にそのコップが大切な人にもらった思い出のコップだとしても

時計が初めての給料をすべて使って、思い切って買った高級な時計だとしても

2つという数字からはわからない。

つまり、数字化するということは、情報をシンプルにするということだ。

数字を使うという事は

難しい事をしているのではく、むしろ簡単に理解するためのツールなのだ。

つまり時に大事な情報は数字には残らない。

多くの人はこれを忘れてしまっている。

数字を使えば物事を深く知る事ができると思っている。

例えばコップ1つ+時計1つ+花瓶1つ+フォーク1つ

はいくらでしょう?

応えは4つだ。

だけどこの「4つ」にどれだけの意味があるかというと

なにかが4つあるというだけだ。

しかもこんなバラバラな種類が4つ集まっても意味をなさない。

では人間はどうだろう。

木村さん+鈴木さん+小林さん+田中さん=4人

「4人」という数字だけ見ると

田中さんの魅力的な笑顔とか

鈴木さんの滑らかな動きとか

小林さんの個性的な生活とか

田中さんの生まれもった強靭な体質だとか

そういったものは一切「4人」に含まない。

木村さん+鈴木さん+小林さん+田中さん+ポチ+タマ=6

これはもう訳がわからない。

実は数字にするということの方が簡単だ。

数字は物事をシンプルにする。

多くの場合数字は「量」をあわらし、「質」を犠牲にする。

数字を使わない方が物事の本質に迫れる場合はたくさんある。

数字を使ってすべて理解しようとすることが無理がある。

むしろ数字でしか理解できない人は物事の本質にいつまでたってもせまれない。

ただ一つ注意したいことは

数字は悪者ではない。

ただの道具だ。

その道具の特性をわかった上で使うのであれば何も問題はないし、便利なものだ。

単純に物事を理解したい時にはかなり有効なものだ。

お金を数える時にいちいち札の汚れているかどうかなんて気にすればきりがない。

ただそこにはほとんどの情報が抜け落ちているということを知っている必要がある。

数字の特性をわかった上でそれに適した状況で使うことは必要だ。

ただ数字の特性をわかっていないと

いつの間にか数字を使っているつもりが、数字に使われてしまっている。

あなたはどうだろうか?

あたなの大切な人はただの「1」でしょうか。

それともそれでは表しきれない存在でしょうか?



マインドコントロール。

03-06,2012

久々に書こうと思ったことができたので、書きます。

オセロ中島がマインドコントロールに会っているというニュースを見る。
そしてコメンテーターが洗脳を解かなくては..なんて話をしている。

違和感ありません?

コメンテーターさんは誰にも洗脳されてないの?
今のコメンテーターさんの価値観は今までの社会の影響を受けたものじゃないの?

確かに中島がマインドコントロールにあっているのは確かだろう。占い師にも影響を受けているだろう。
だけど、それと同じぐらいコメンテーターさんも社会というものから影響を受けている。

マインドコントロールというと特別なものと言った印象を受けるけど、
実は皆、誰かしらからマインドコントロールを受けている。

多くの場合親だろう。先生や友人、恩師などいろいろある。彼らからこんな事はしてはいけない。こうするべきだ。という価値観を皆いつの間にか当たり前のように持っていると思う。もちろん私自身もそうだ。

コメンテーターさんは社会からの影響を受けている事に気づいていない。

だから自分から見るとコメンテーターさんも中島さんも同じように見える。

こうなれば多数決の世界だ。コメンテーター教が正しいか、中島さんの占い師が正しいか。
もうそういったレベルにさえ感じられる。

お互いマインドコントロールにかかっているのに
それに気づかず、ただ相手をマインドコントロールというネガティブな言葉で否定している。

よく思うのだが自分でマインドコントロールされていると思っている人は
マインドコントロールされている人ではない。

マインドコントロールなんてされていないと多くの人は思っている。
このコメンテーターと中島さんのように。
それはすでにマインドコントロールされているという事だ。


今のコメンテーターさんたちは中島さんを救おうとして、自分たちの価値観を押し付けている
ようにしか見えない。それは新たな宗教の勧誘とかわらない。

それでは中島さんは一向に幸せになれない。なぜなら、常にマインドコントロールにかかっていること
は変わらないからだ。ただ考え方が多数派になっただけにすぎない。

大切なのは自分は誰からの影響を常に受けているという事に気づくことだ。

今までそれは見た目には違わないかもしれない。

だけど影響されている事を認め、自分が何に影響されているのか。

それに気づくことで、初めてマインドコントロールをうまく自分のために使うことができる。

皮肉だけど、マインドコントロールにかかっていると気づける人が、実はマインドコントロールから抜け出す唯一の手段なのだ。

まずは人のことどうこう言うよりもコメンテーターさんもマインドコントロールされている事に気づいたほうがいい。
でないと、ただ価値観を押し付けるだけ。

それでは人は救えない。

マニュアルに振り回されない。

10-20,2011

多くの福祉・医療分野では

ことあるごとにマニュアルを作成する事があたかもすばらしいことだと思われている認識がある。

本当にそうだろうか。

その割にマニュアルが役に立った事は経験上てとも少ない。

むしろ現実的にマニュアルが業務の負担になったり、作成することで疲れてきてないでしょうか。


ちょっとマニュアルの役割を見てみよう。

マニュアルとはやり方を書いた集まりですね。

つまりその本を見て行動するわけです。



マニュアルに書いてある事をそのまますれば能力はあまり関係ありません。

単純な事はそれですむでしょう。

しかし複雑な場合、マニュアルで対応しきれない場合があります。

ではマニュアルを複雑化すればいいと思われそうですが、

それは本末転倒です。

作成はしたものの全く使えないものになります。


そもそもマニュアルとはやり方の集まりですから、

本当のプロが使うものではありません。

はっきり言えば素人が使うものです。

マニュアルを作成して現場を対応しようという意識では素人の集団から抜け出せません。

マニュアルに頼ることで、臨機応変に対応することがまったくできないからです。

ファーストフードなど人を短時間でさばく必要がある場合はマニュアルが役に立ちます。

福祉の分野で人と人で関わるとき、人は複雑ですからマニュアルは使えません。

もちろん参考にはできますが、複雑なので、常にマニュアルが正しいわけではありません。




マニュアルは使えないといけないので最低限中身が伴った上でシンプルであればあるほどよいのです。

そして誰が、どういった状況で使うかをふまえた上で使用するほうがよいです。

最低限の事故の対策や避難訓練などをすることができれば(それさえも臨機応変が求められることがありますが)

それ以上のものをマニュアルに求めてしまえばいつまでたっても仕事の質は上がらないでしょう。



マニュアルに頼ることで、いつまでの仕事の質が上がらないならどうすればいいのか。

それは単純に能力を高めることです。

それは教育にかかわっています。

教育といってもやり方を教えてしまえば、マニュアルの勉強会をしているだけです。

それは教育とは言えません。

実は今の学校教育の問題点と共通しています。

考える力を養うといっても、考える力を養う教育をするにはそれなりにトレーニングが必要になります。

実は教師を先に教育する必要があります。

でもまたその教師の教師がやり方を教えてしまえば無意味です。






教育とは能力の向上をはかる必要はありますので、

「その場の状況を感じ取り、自ら考え、適切にその場を対処できる能力」

を高める必要があります。


マニュアルに頼るということは、教育システムが確立できていない事に気づいてほしいと思います。

マニュアルが悪い訳ではありません。ただマニュアルはその性質上複雑なものや、プロ向けではない、緊急的なシンプルな対応には向いてますが、それ以外では能力を高めるしか方法はないのです。

マニュルアを作ることばかりにこだわるのではなく、

もう一度教育見直すことに力を入れていく必要があります。



世界と自分

09-16,2011

実は世界は大きく2つの構成要素で分けることができます。
自分と自分以外です。

多くの人は
自分を知らないまま

自分に何が起こっているかも
わからないままつき進みます。

だから
怪我をしたり
自分が傷ついたことさえ気づきません。
そしていつか取り返しがつかなりかねません。

自分を適切に扱ってあげれば
怪我だってするかもしれないけど最小限ですみます。

逆にもっと大事にするものも見つかるかもしれません。

自分を知るということは全世界、いや宇宙の半分を知るということです。
自分の世界には常に自分が存在しています。
宇宙全体と自分自身しかいないのですから。

確かに「量」でいうと自分以外のほうが多いが
あなたは常に自分と一緒にいるわけだから
「質」でいうと半分ぐらいといっても大げさではありません。

もっと自分に注意を向けてみましょう。
世界は広いが自分は常にそこにいます。

世界にはいけないとこはあるが、
自分自身には触ることもできます。

近すぎてあまりよくわかない自分を
もっと観察してみましょう。

動いても触ってもいいし
日常生活の振る舞いや、反応を観察してもかまいません。

いつもと違う行動をしてみるのもひとつです。

きっとおもしろい発見があります。

その時世界は膨みます。
あなたは世界の半分ですから。
構成要素のあなたが広がれば世界は膨らむのは当然です。

世界を広げるということは
新しい自分を知ることです。

世界や宇宙を知ろうと思ってもたかがしれている。
多くの人は世界で動きながら「自分」を発見しています。

何も世界に旅行に行かなくたって
日常だって立派な世界です。
そこで自分を観察することだってできます。
もちろんいきたければ世界に行ってもかまいません。

何をしようが自分は「そこ」にいるのですから。

自分を知れば
世界は広がります。

自分探しバンザイ!!

成長という幻想ではなく、成熟という現実

09-08,2011

国は人で構成されているなら
人も国もよく似ている。

国も年を取る。

日本は高度成長期という
成長期をとっくの昔に終わり
今の日本は中年ぐらいかな。

日本は今までのように大きくなることが全てではなく
より成熟した価値観がもとめられる
昔はテレビや洗濯機なんかもっていることがステータスだった。
今は人によってそんなに必要性を感じない人も多い。

量から質の価値観の転換だ。

今まではなんでもかんでも蓄えてきたが
そんな事をするしんどさも自覚しつつある。

若さを求めるときっと無理がでる
年齢をとることに抵抗するのではなく
よりよく年齢をとることが必要だ。
まだ無理をしても、なんでもかんでも集めるのか?

アメリカでさえ
大量消費の文化が変わってきている
ローンで家を買うために無理をするよりも
個人の充実したライフスタイルにお金を使うようになっている
大量消費から、個人の必要な消費へと大きく転換してきている

それは日本同様アメリカも年をとっているからだ。

何も悲しむことじゃない。
大人は子供にはわからない世界が見える
本当に大切な事がわかりつつある時代になっているのだろう。

年をとるといいうことは成熟することだ。
今の自分を否定したらいつまでもかなわない。
若さにとらわれるのは国も人も同じだ。
ずっと成長していくものなんてこの世に存在しているか?
なぜ経済だけがずっと成長するとみんな信じているのか?

今までの価値観では通じない社会へ
だからこそおもしろくもある。

成長という幻想ではなく、成熟という現実を受け入れよう。
あきらめることじゃなく、それがめいっぱい可能性を広げることになる。

年をとろう。

08-28,2011

年を取ることに戦うのではなく、
年を取る自分とうまく付き合う。
それが若さの秘訣
健康の秘訣。
なんだかか年を取ることが若くなるって矛盾に聞こえるけど
そんなもんです。

年は現実的に取るので、それを否定すると
自分を否定することになっちゃう。
年齢を取らない自分という
妄想の世界で生きなくちゃならなくなる。

年を取ることに逆らうんじゃなくて
よりよく年をとる事を考えれば
うまくいくかもよ。

自分との付き合い方を変えたり、
自分の使い方を変えたり、
ないものを追うのではなく
あるものをうまく使おう。

ない自分を作るのじゃなくて
隠れていた自分を発見しよう。

それが可能性を広げるということでっせ。
あんがい自分の事って知らんもんです。

花粉と仲良しになる方法

05-20,2011

僕も花粉症についてはもう十数年なやまされてきました。最近花粉症にたいする画期的なメソッドを考案しました。それによりかなり花粉とうまくつきあえるようになり、症状も軽減していきました。ここは個人的な体験と何人かの実験を行った結果のみをのせています。あくまでも自己責任でお願いします。

本日は語り口調をかえてお届けします。なんとなく。

まず、自分なりの花粉症についての理解

花粉症とは
免疫系の異常によって体が本来無害である花粉に対して過敏に反応しようする状態。花粉を異物だと見なし体から排除しようとする反応によりくしゃみや鼻のむずむじ、目のかゆみなどがおこる。

ここからが個人的な花粉症の見解
実はその反応というのはくしゃみや目のかゆみというだけでなく、体をこわばらせようとする反応なども同時に起こっている。免疫系の変化は全身的な筋骨格系も含めたシステムとして体が反応している。花粉症経験者なら花粉がまっている部屋にいくとくしゃみだけでなく体がこわばっているのを容易に想像できるだろう。実はくしゃみだけでなく、体全体で花粉を外にだそうというシステムが花粉症の人は構築されている。その反応をおこせばおこすほど体は花粉に対してより異物だと認識してしまう。そしてさらに強力な花粉を除去しようとするシステムが構築される。一度くしゃみがでれば止らなくなるのはそのせいではないかと考えている。花粉症のやっかいなところは花粉を異物だととらえ排除する反応をすればするほど、脳や免疫系は花粉を異物だという認識を強化する。つまりより激しいくしゃみや目のかゆみが誘発される。そしてまた脳や免疫は花粉を異物だと認識する悪循環におちいる。これではなおらないのも当然だといえる。むしろ花粉に対する体の防御反応はますます悪化していくだけだ。

同じような例が皮膚のかゆみに対しても考えられる。皮膚のかゆみを書く事は脳がそこにかゆみがあるという認識を強めていることにもなる。つまり脳がそのように学習するので、かけばかくほどかゆくなるし、また発疹を体が作ってしまう。かかなければ軽減することが多いのは身をもって経験ずみだ。

花粉に対する考え方として、従来は人間の体には花粉に対する容器があり限界になると花粉症が発症する容量みたいなのがあると説明されているが、私の意見ではそういった容器などはなく、ただ花粉に対する反応を重ねることで悪化していくのである。時期がなくなり、花粉が減ったとき、反応する量も減り、また花粉が出たときに反応する量が増えたため少しづつ悪化していくように見える。

花粉症を容器がいっぱいになった状態としてとらえたり、免疫系だけの反応としてとらえてしまえば軽減できないのはあたりまえだ。免疫なんてとらえようもないものを直接変えることは難しい。もちろん薬によって軽減できることはあるが、それは免疫系をだましていることにより長期的な体のシステムにどのような影響があるかは正直予測できない。もちろん薬が必要なほど強い症状もある。安易に薬を否定しなでくれ。あくまでもお医者さんと相談が基本だ。

だが実際私が考案したメソッドを行うと軽減することも多いのだ。少し考えてみてくれ。不思議に思わないだろうか、いくら花粉症の人といえど花粉はとんでいるはずなのに花粉に反応しやすい時と、今はそんなに反応しないときもある。それはどういうことなんだろう。


ここで発想を転換しよう。花粉を免疫系だけでなく筋骨格系を含めた体全体的な反応で花粉を拒否しているのであれば、その反応の仕方をかえればいいのだ。今まで花粉を「拒否」することによって体が学習していたのならば。今度は「自然に受け入れる」ことによって花粉に対する体の拒否反応は軽減するのではないか。

ただ、ここで一つ問題がある。花粉を受け入れる。といってもどのように反応することが私たち人間に可能なのか。嫌だとは思うが花粉が飛んでいるときの反応を想像してくれ。いつも同じような反応の仕方をしていないだろうか。体をこわばらせ、呼吸を窮屈にし、そしてできるだけ花粉をすわないようにしている。だけど息はしないと死んでしまうので、窮屈になりながら「はくしょん!!』という感じのパターンが多いかなと思う。

なぜシステムの中で筋骨格系をこんなにアピールしたかというと、実は僕らの体で意識的に変えやすいところは筋肉や骨を使った動きなのだ。さきほども言ったように体全体で花粉を否定しているのだから、体全体で否定するのをやめればいい。それにぴったりなのは筋骨格系しかない。筋肉なんて花粉と関係ないだろ・・・(笑)とか動きをばかにしてはいかん。どう動くかによって免疫系は大きく左右される。例えば笑うという動きが免疫の活性化につながるということは最近はかなり有名な話。

特にこのメソッドでは呼吸に注目する。なぜなら花粉を直接吸入している動きでもあり、また呼吸が楽にできるということは体の緊張がほぐれ体は適度に解放をしているというこことを教えてくれる。つまり楽に呼吸できている状態というのは花粉を自然に受けいれている状態と言えるのだ。


ここまで長々と書きましたが実はこのメソッドはとー-ってもシンプルなのだ。
何をするのか。それは

「体が花粉に対する拒否反応を示したら、逆に呼吸に注意をむけ楽に呼吸をしてみる。ただ楽にリラックスして呼吸する。」

こんだけ長い前振りを書いたが、実はただそれだけだ。

小難しく書いた割にひょうしぬけしたかもしれない。しかし人間はいつも習慣的に同じような反応をしてしまうものだ。花粉に対して同じようは反応をしてその習慣を強化してしまう。花粉拒否システムを体内で作り上げてしまう。だからいつもとやり方を変えてみるのだ。花粉が空中をまっている中で楽に呼吸をしようとすると、案外いつもしている反応に慣れているので、体が同じように反応しようとしてしまう事に気づくでしょう。

またとてもとても大切な注意点が一つだけある。「無理に花粉を受け入れようとしない」という事だ。花粉を受け入れよう、受け入れようと必死になって呼吸をする行為は、裏を返せば花粉を受け入れなていない表れでしかない。仮に花粉に何も困ってなかったらわざわざ受け入れようとする必要なんてないだろう。花粉を無理に受け入れようとすることは、実は花粉を拒否しようとすることと表裏一体なのだ。そのためそういった呼吸では症状の改善はみとめることはできない。

拒否するような呼吸もだめ、受け入れようとする呼吸もだめだとなると少し混乱してたのではないか?だけど実はこのメソッドの大切な部分はここにある。ではどういう呼吸をするのがいいのか。また同じことを言うが、それはただ楽にゆっくり呼吸をするだけだ。大きく深呼吸みたいにする必要もない。ただ楽にするだけなのだ。そして楽にできている事を感じてみる。案外花粉の中でも楽に呼吸ができることに気づくかもしれない。するとあら不思議。花粉なんて存在しているかわからない程度(もちろん人によって効果の大小はありますが)になっているかもしれません。


理論的に解説します。
呼吸のパターンという動きが変わったという事は、それも全身的な人間のシステムに影響を与えているといことです。それは免疫系にも当然影響を及ぼします。呼吸が楽にできることを経験したり学習することによって脳や免疫系の反応パターンもかえることができます。呼吸を変えることでこれまで構築してきた体の中の花粉拒否システムを変化してくいくのです。免疫というのは非常に柔軟で変化にとんだものです。一夜にしてアレルギーをおこしたり、また一瞬にして発疹がなくなるということも一度は経験したことはあるのではないでしょうか。免疫を狂えば調整できないものととらえるより動きをもちいる事によってある程度の調整は可能だと考えることが自然です。もちろん重度のアレルギー疾患などはもっと深く考える必要があります。今回はあくまでも一般的な花粉症の話です。これが正しいと思うのではなく、数ある中での1つのほう方法としてこのメソッドを使ってみてはいかがでしょうか。呼吸をかえるだけという副作用もほとんどない方法だと思います。

とは言ってもくれぐれも自己責任で。






まず人間観を学習する大切さ

04-25,2011

最近色んなセミナーに言って思うことがある。

特に色んなメソッドや概念を自分で作った創始者という人達。

もしくは何かに卓越した人達。

その人達をみているとなぜメソッドや概念ができるのかというのがわかるような気がする。

最近セミナーとかで自分が心の中で良くする問い。

それはこの人はどんな人間観をもっているんだろうとうこと。

実は人間観がわかると何を言いたいのかも結構わかる。


きっとほとんどの人はメソッドや概念が特別なもののように思うのかもしれない。

そういう人の頭の中がどうなっているのか想像もつかないと思うのかもしれない。

だけど根本が違うんだと気づいた。


そういった人はメソッドや概念を最初に作ろうとしたのではないということ。

そういうメソッドは自然な気づきから生まれたもののように思う。


だからその前に大切なことがある。

それは「人をどのような人間観でとらえているのか」

「人とは何かを問う」

ことが大切だと思う。


それはある意味哲学なのかもしれない。

あらゆるメソッドやテクニックや概念は哲学から生まれているように思う。



例えば人は変えられないという人間観を持ってみる。

ではどのように上手く生きるためにどのような方法や考え方がつかえるか。

それをまとめるとメソッドや概念になる。


人は部品の固まりであると考えると

手術方法や、個別の筋力強化などの方法が生まれる。

人を反射の固まりととらえると

反射を抑制する、もしくは反射を促進するような方法をとる。


何が正しいかどうかはここでは置いておくが、

創始者と呼ばれるひとはそのような人間観がしっかりしている。

それがしっかりしているほど、明確なコンセプト、方法が生まれる。


逆にいうとそういう人間観がない限り、メソッドや概念は生まれない。


多くの人はそういった人間観を磨こうとしないままメソッドや概念を作る事を想像します。

だからいわゆる創始者の頭の中が想像もつないと思うのかもしれません。

テクニックがなぜ生まれたかということを考えるから想像もつかないんです。

実は人間てなんなのか?という問いが先なんです。

それば明確になれば自然と答えはでるものです。


別にメソッドや方法を作らなくても、その問いは役に立ちます。

自分の人間観を深めるためにも学習することが大切です。

学習するには自分の興味のある事を学習しようとします。

それは学習する上でも根本になるものです。


解剖とか生理学とか学ぶことも、ケアとか理学療法とか作業療法とか看護学とか
学ぶことは大切ですが

まずどのような人間観があるのかを学ぶことが先です。

言いかえれば人とは何か?これをしっかり学ぶことでよりよい学習ができます。


逆にこのプロセスを行うわない事は

例えば人間はパーツが集まったロボットであり、みんな同じようなものという人間観であれば

ではその「部分」を中心に学習していこうとします。

人間を切っとって部分に学習するでしょう。今の医学のように。



ここで違う人間観を紹介します。

人間はパーツが集まった単なる物体ではなく、お互い関係性をもっている1つのシステムなのだ。そしてそれは1人1人違う。

こういう人間観を持つと単なる部分だけをみようとはしません。

部分どうしのつながりを理解しようとしたり、逆に人間と言う全体をとらえようと学習します。


つまり人間観が変わると学習する内容も大きくかわります。


認知症の人をテーマに学習するということもそうですね。

認知症の病状をなにげに中心に勉強しているのは、病気という部分だけが大きくその人に影響していると無意識的な人間観をもっているからです。

人間という豊かなシステムのなかで認知症というものがどういう関係をしているのかなんて見ないわけです。

だからいつも病気という部分だけしか学習しない。そして迷い込む。

豊かなシステムでとらえるとどうも認知症の病状だけ学んでも解決しない事にも気づきます。そしてより広い視点で物事をとらえようとします。つまり学習の内容が変わります。



人間観を学習するとういことは

自分の方向性を見つめるのに役に立ちます。

それをしないまま、迷い込んでいる人がどれだけいるか。


さいわい僕は昔からそういう人間観に興味を持つ事ができました。

そして人をケアする経験や、老いと向き合ってきたこと、認知症とも向き合って人が生きるということはどういうことか考えたり、またキネステティクス®などから色んな人間観を学習したので、人間観がよりよく深まりつつあります。そして、こうやって今ある僕の人間観にもとづいて文章を創作するわけです。

人間観を学習すればこんな僕でもへんな文章は書けます。

それが創作する人の「タネ」の部分だと思います。

誰もそんな事は言いませんが、実は今、相当よい情報を書いているのかも。と自画自賛したいぐらいいいネタだと思います。


最近はすぐテクニックや方法のみを学ぼうとします。

しかしそれはものすごくもったいないことです。

それはあくまでおまけみたいなものです。


学ぶ実りが多いのは実はその背景にあるバックグラウンドです。

それを学ぶことでより豊かな思考ができたり、クリエイティブになることができるのです。

方法だけ学んでも実は何も学んでないんです。

フェルデンクライスメソッドにしてもキネステティクス®にしても概念や方法だけ学ぶなんてもったいない事はしないほうがいいです。その裏にある人間観を学んでほしいと思います。

学ぶ事は人間観を学ぶこと。

色んな人間観に触れて比較できるように。

この作業をまずしてみましょう。

木を見て森を見ずにならないように。



遠回りのようで一番近道の方法だと思います。

奇跡は僕らの周りにあふれているんじゃないか。

04-14,2011

奇跡はたぶんじっとしていてはおきないんだろう。

テレビを見ていても感動する話は思いきってどこかにでかけた時か
何か思いきって行動したときにおこる。
部屋でじっとしてたら感動したなんて事はまずない。

たまたまどこかに行った時、
ちょっと思いきって行動した時
興味の赴くまま出かけた時
普段やらない事をしてみた時

そして奇跡が起こる。

奇跡、奇跡というけどほんとうは奇跡だからといって
レアじゃないんだと思う。

日常の中にきっと奇跡はあふれている。

僕らは気づかない間にスルーしているだけ。
行動した時、そこらじゅうにあふれている奇跡に出会うことができる。
奇跡はどこにもあるのだから。

奇跡はあまりないから奇跡なんではなくて、
発見できない人が多いから奇跡なのかもしれない。

奇跡を発見しよう。

奇跡はきっとあなたの周りにあふれている。





おもしろい事ないかなーと言っている人へ

03-17,2011

いつも行動することを迷った時に思う事。

行動しないのはもったいない。

自分の経験から言って行動してよかったなーと思うことが多い。

もちろん失敗することもあるけど、実は別に大したことはない。

人に迷惑をかけることをわざとはしないようにすることは必要だと思うけどね。

とりかえしのつかない失敗は実は意外に少ない気がする。

ただ事故と命にかかわるようなものは注意したほうがいい。



僕自身も最近色んな人にきっかけを提供する事があります。

だけどなんでそれを生かすことをしないんだろうと非常にもったいな気持ちになります。

僕も色んな人にきっかけを貰ったので、今度は誰かにきっかけを提供しないとね。


別に無理する必要はないので、強制する気なはさらさらないけど

この世界には非常に面白いものが沢山あるのにもったいない。

知らなくても僕自身が損するわけではないけどね。

でもやっぱりもったいない。


面白いことないかなーと言っている人に限って行動してない。

行動しない限り面白い事はない。



僕は行動して思います。

だから最近思います。この世界は面白いと。

行動する人だけが知る宝箱みたいなもんかもしれんね。


だけど僕も行動することを迷う時はあります。

そういう時取り敢えずやってみるという選択をしてみます。


だって仮に今まで行動してなかったらと思うと

ちょっとぞっとします。

それぐらい大切です。


もちろん無理するんじゃないですよ。

興味あっても「でもなー」とか「ちょっと恥ずかしいなー」とか思う事をやめるだけです。

やめれば興味のまま動くことができますね。


そうすりゃあ予想もしなかった面白いものが見つかるかもしれません。

案外近くにあるよ。



あなたにはどんな生活が必要ですか?

03-14,2011



マイアミバーガーうまかったです。

ボリュームもあって食べごたえもありました。

ひさしぶりのマクドなのでセットにナゲットまで食べてしまいました。

だけどおなかがすくので仕方がありません。

僕の体重は右肩あがりです。

マクドを食べながらダイエットについて考えてました。

多くの場合なぜ太っているのかを考える事をしません。

世の中ダイエットブームでそれこそいろんな方法があります。

だけど根本的な事が抜けてます。

やせたいと思って運動はするけど、やめたら元通りです。

食事制限も同様、やめたら元通りです。

何か自分に変化をもたらしたいとき僕らは体だけをみてしまっています。

だからこの体をなんとなしなければと思い運動や食事制限なんかをします。

しかしそれでは無理が生じます。

見落としているものはなにか。

それは生活です。

太っているのは個人の特性(太りやすい体質など)もあるかもしれないけど、その生活だから結果適応して今の状態を作っているわけです。

僕らの体は今している生活を通じて作られます。

生活が自分の体を作っているなら、今の生活を変化させる事がダイエットには必要なんです。

しかしすぐにかえれば変化するかと言えばそうではありません。

違う生活に適応するには時間がかかるのです。

つまり待つ事が必要になります。

生活が変わると徐々に体が適応していきます。

すぐには結果はでませんが確実に変化していきます。

個人差もあるでしょう。

急激な変化を期待する事は無理がでます。

ダイエットならリバウンドをしますね。

体により負担をかけることにつながります。

ゆっくりと違う生活に適応していくようにしていきます。



実はダイエットだけではありません。

生活が心や体も作るのです。

どんな生活を送るのかによって自分の精神状況に影響されるし、自分自身のとらえ方だって変化します。

もちろん体も変化していきます。

一日中オフィスでパソコンをしている仕事と、大工さんでは体の作りは変化するのは当然です。

性格だって変化するでしょう。

生活が心も体も作ると言う事は健康も毎日の生活によって左右されることです。

つまり健康になるには健康になれる体をつくる発想ではなく健康になれる生活を作ることが大切です。

体を作るだけなら自分の一部分にしか焦点をあてていませんが、人間はそんな単純にできてません。

生活を作るということは自分のすべてが変化するとうい視点をもつことができます。

心も体も変化します。

そして生活にアプローチするということは生活と心と体がどういう風に影響されているのかの流れをみるという事です。

生活が変わる事で自分にどういう影響があるか、逆に環境が変われれば、自分が変われば生活がどう変化するか。

そしてその生活がまた自分自身にどういう影響があるか。という流れを見ていくのです。



生活を大きく分けると環境と個人のつながりだと考えることができます。

生活を変えるとということは環境もしくは個人に変化を加えることです。

今ままで自分に変化を加えようとしましたが、環境を変えてみることでも生活は変わります。

もちろん環境と個人の両方が変化してもかまいません。

そのほうが生活は変わりやすいかもしれませんね。

新しい環境に飛び込んでも生活は変わりますね。

生活が変われば自然に自分の体はよくも悪くも変化していきます。

心も体も健康的な生活を作っていきましょう。

生活を変化させながら時間をかけて自分を育てていけばいいんです。

自分をかえるのではなく生活をかえるという発想です。

自分を無理矢理かえるのは難しいものです。

明日からイケメンになろうと思っても思えないでしょう。

実は今している生活を変える方がよほど簡単です。

変化には時間がかかりますが、生活を変えながらじっくりと自分を育ててみてください。

あなたをよりよく育てるためにどんな生活が必要ですか?



あと筋トレだってやめたら元通りです。

老人は筋トレをして動こうとすればずっと筋トレをしていかなればなりません。

筋トレだけで動けるようになること自体ちょっと疑問ですが。

どちらにしても筋トレを一生続けていく生活よりも、生活の中で楽に動ける動作を続けていくほうがよほど有意義なように思います。

どちらを選んでも自由ですが僕は安易な筋トレは一生続けないかんのはしんどいです。

年取ってまでそんな歯をくいしばって生きたくはありません。


ダイエットと同じように、生活を変える事で筋トレしなくてもよい状況を作るもの一つです。

そして生活は環境と個人でなりたってます。

お年寄りの環境は何か。それは僕らです。

僕らが変わる事でお年寄りの生活は変化します。

僕ら自身が環境となり楽に動けるような提案ができればいいんです。

そうする事でお年寄りの生活が楽にできるようになります。

しんどいことは続けるのは大変ですが、楽な事は続きやすいですね。

もし楽に動けるような提案ができないと思うならキネステティクス(R)を学びましょう。

案外楽に動く考え方は知らないものです。

ちょうどここにベーシックコースの教師がいますよー。

2、3人の少人数からOK。出張もします。

まず気軽に右のメールフォームから聞いてくださね。

とういう長い宣伝でした。




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