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ハンドリング

09-07,2013





ケアやリハビリのハンドリングとは
上手く相手を「動かすこと」ではありません。

質の高いハンドリングとは
本人自身が「動くことを助ける」こと、
または「動きを学習することを手伝う」ことです。


ハンドリングというと「物体を上手く動かす」という認識になりがちですが、私達の対象は神経系をもっている人です。
単純な構造の物体と同じように動かすことはできません。
できたとしても神経系に悪影響を及ぼします。


ハンドリングが上手いということは
コロコロと相手を転がすことが上手くなることではなく、介助される人が自分で動きをコントロールし、動く事を助けるものです。接触や介助者の動きを通して相手の神経系の学習を助けます。ですから一緒に試行錯誤することはハンドリングの大切な部分です。


必ずしも一度でひょいと動かすことがハンドリングが上手いということではありません。
多少戸惑っても、試行錯誤することで、介助される本人が学ぶことができたならそれは素晴らしいハンドリングです。


上手く転がしても、何も学んでなかったら
ハンドリングとしてはあまり質のよいものとは言えません。
もちろん一度のハンドリングで学ぶこともあります。
学びの過程でコロコロ転がることももちろんあります。


大切なのは「上手く動かしたか」ではなく、「何を学んだか」です。


質のよいハンドリングを行うためには時間がかかる時もあります。ある意味、介助というのは限られた時間の中でのセッションのようなものです。そこに接触と動きによるコミュニケーションや、言葉によるコミュニケーションがあります。


上手く人を動かすことに慣れてきた時によく陥りがちですが、一方的にコロコロ転がして、一見上手くいったように見えることが質のよいハンドリングだと勘違いしがちです。それでは上手く「運搬」することができただけです。質の高いものではありません。


実際の現場では時間の制約がある以上、常に質のよいハンドリングをすることは難しいかもしれません。


大切なのは自分が「今何をしているか」ということを理解することです。

今自分は「運搬」をしているのか「動きの教育」をしているのか。


自分がしていることがわかると
限られた時間の中では「運搬」になるかもしれませんが、時間があるときは「動きの教育」をすることを援助者が選択できます。

ハンドリングのスキルを高めて
よりよい動きの支援をしていきましょう。

谷口奨




※写真はキネステティクス®ベーシックコースの様子

※この記事は私が「動きに学習とリハビリテーション研究会」のFacebookに書いたものです。
動きの学習とリハビリテーション研究会のFacebookはこちら

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人の動きから考える認知症2 記憶について

09-29,2012

人の動きから考える認知症シリーズ2です。
前回はこちら
人の動きから考える認知症 3分類とアプローチ
今回も一つの意見として気軽に見てください。


1.記憶力とは何か

記憶力が低下するというときはどういった状態でしょうか?
人は思い出す時何を思い出しているのでしょう?

人の記憶はすべて関連することによって記憶しています。単純に昨日の食事を思い出そうとした時も、意識しないかもしれませんが、どういった状況で、誰と食べたか、何時頃食べたかなどという情報も同時に思い出してます。単語だけを思い出しているわけではありません。逆に何を食べたか思い出せない場合、状況や時間、どのような場所で食べたかを思い出してみると、何を食べたかも思い出す事がより簡単になります。

それでも思い出せないのなら、自分は何をそこで何を話したか、食事をする前後は何をしていたか、においはどうか、その時の感情はどのようなものだったか、など他にも関連づけられるような所から思い出してみてください。その時に関わる様々なことを関連付けすることより思い出すことができるでしょう。逆に忘れたくない場合、何かに関連付けをすることはとても有効な方法です。

人は何も関連づけができない時、記憶することがとても困難になります。
パスタ、オムレツ、ハンバーガー、うどん、ステーキ
これらを簡単に覚えることはできるでしょうか?

人間の脳は優秀ですから、パスタと聞いただけで、お皿に載ったパスタを思い出し、人によりますが、そのとき食べた感情なども意識することなく、ほぼ自動的に思い出します。おいしそうな匂いや食感や塩見や旨味。お腹が減ってきました(笑
多くの人は無意識的にも映像化し、質感なども関連づけて記憶しているのです。

ではこれはどうでしょう?
ほでぎょう、ぎょうほ、べとうっき、がおうぐわ、ぎょうえいほ(適当に入力しました)

同じぐらいの文字数ですが、容易に覚えられるものではありません。覚えられたとしても先ほどよりも難しいと思います。これは関連付けができないからです。関連付けすることができないと、記憶力は極端に低下します。つまり記憶力の大きな部分は関連付けする能力に大きく影響しています。記憶力の低下とは「関連付けする能力の低下」とも言えます。実は関連付けしない単純な記憶力は人間はあまり持っていません。単純な数字の羅列を覚えるだけでも何にも関連づけしない場合とても覚えるのに苦労します。数字でさえ、数字という枠組みで関連づけされています。

один два три четыре пять шесть семь восемь девять
これはロシア語の1〜9までの読み方を表しています。

دٌ اِثْنَانِ ثَلَاثَةٌ اَرْبَعَةٌ خَمْسَةٌ سِتَّةٌ سَبْعَةٌ ثَمَانِيَةٌ تِسْعَةٌ
これはアラビア文字の1〜9までの読み方を書いてものです。

私達の使いなれた数字の読み方を捨ててこれらの文字だけを使ってあなたは何桁の数字を覚えることができるでしょう。多くの人はわずかだと思います。少なくとも私はわずかです。例えばこの羅列четыре пять اَرْبَعَةٌ ثَمَانِيَةٌ これをすぐに覚えられるでしょうか?日本語にすると四五二六です。(たぶん汗)そうするとすでに日本語の数字を関連付けを利用して簡単に覚えられます。本来関連付けができないと人は記憶することがかなり難しいのです。普段記憶力を使っている私達にとって意外なことですが、やはり人の記憶は本来少ししか記憶することはできません。関連づけすることで、この能力を何十倍も、何百倍まで伸ばしているのです。テストでも学問でもただ単純に単語や文字を暗記するのは非常に不効率です。前後の流れや全体を体系化して覚えることで人はより覚えることができるのです。物事をよく知っている人はこの体系化する能力、言い換えると関連づけする能力を使っています。もちろん何かを学び始めた最初ほど関連づけられるものが少ないですので最初はゆっくりであまり単純に暗記するのと違いを感じられなかもしれません。しかし少しづつ体系化していくと、関連付けがまた違う関連とつながり様々なことを効率よく覚えることができます。知識が豊かな人ほどのこの関連づけする能力を使っています。まさに知識を2乗にして増やすことができます。


2.認知症と記憶すること

ここで認知症を考えましょう。なぜ認知症の人は記憶力が低下するのでしょう?
もともと人は記憶する能力が少ないとしたら、やはり物事を関連づけする能力が低下していることが大きいです。ではなぜ関連づけすることができないのでしょうか?

多くの認知症の人は老化に伴い、自分自身の認識を上手く書き換えることができません。自分のことをいつまでも若いと思っていたり(動きの混乱化)、自分のことの認識自体が鈍くなっていたり(動きの習慣化)、自分自身を否定したりしています(動きの縮小化)。ついこの前書いた動きからみた認知症の3分類に対応するものです。

これらが自分自身の認識に大きく影響していきます。多くの自分自身の認識について現実とずれが生じているのです。自分自身の認識がずれたまま周囲、つまり環境と関わると、当然そこにずれがわずかにでも生じます。最初は簡単なことです。自分では大きく足を上げているつもりでも、実際は自分が思ったより上がっていなかったり(動きの混乱化)、同じことをただ繰り返しているだけで周囲の変化についていけなかったり(動きの習慣化)、動く事自体が少なくなって環境と関わる機会がへったり(動きの縮小化)するような状態です。やはりこれらも実は認知症の動きの3分類でみられる典型的なパターンです。


3.自分自身の認識のずれが関連づけをしにくくさせる

共通していえることはやはり自分の認識がずれていることで、環境と上手くつき合うことができません。そうなると物事を上手く関連づけすることができないのです。空間で考えてみましょう。自分の居場所でさえ、周囲と関連づけることで認識しています。現在地がわかることで、はじめて自分の右手にトイレがあるとか、その奥に風呂場があるとかという位置関係も理解できるのです。自分の位置関係が曖昧なままトイレの位置を覚えてもあまり意味がありません。右手にあると思って覚えても、180度回ればトイレは自分の左手にありますから。やはり自分の位置関係がはっきりすること、そして空間と関連づけができることで、空間の中で自由に動けるようになるのです。時間で考えても同じです。自分がある場所で朝起きた光が顔にあたるから朝と理解し、夜は暗くなるから夜と認識します。時間も空間も自分自身と環境を関連づけすることで認識します。仮に真っ暗な部屋で何十時間も時計もなく過ごすといったい今の時間はいつなのか、自分はどちらの方角を向いているのか、多くの人は混乱を起こすでしょう。

自分の認識のずれが、環境と上手くつき合うことができず、そしてそこに起こった物事を関連することも難しくなるのです。例えその度合いが最初はわずかにずれていたしても、その影響はあります。空間との関連性が少しでもずれていれば、無意識的にも予想していた位置と少しずれるわけですから、関連づけもその分も少し曖昧になります。日常的にはあまり困ることなく、最初は無意識的でほんの些細な変化かもしれませんが、最近忘れっぽくなったなと思うのはこのような段階であることが多いと考えられます。

このようなずれが大きくなれば、より物事を関連することはできなくなります。昨日は何を食べましたか?と人に聞かれても、どこで食べただろうか?いつ食べただろうか?などの関連付けができなくなると、より何を食べたか忘れる割合は大きくなるでしょう。例え食べたものを覚えていたとしても、どこでいつ食べたか思い出すことができなければ、食べたという実感も少なくなります。状況の関連付けが少なくなればなるほどやはり記憶は曖昧になるのです。例えば料理をしていても、その活動には関連性があるのです。料理がスムーズに作られるのはその活動との前後関係がはっきり関連付けができているからです。なぜ作ろうととしたのか?だれに作ろうとしたのか?なんのために野菜を切っているのか?どこで作っているのか?など。これらに関連付けができなくなったとき、私は何をしているのだろうか?と思うようになります。

自分と時間の前後の関係性が曖昧になれば、自分が何歳でどのようは人なのかが曖昧になります。自分自身はこういう人だと言えるのは、過去の状況と関連づけているから述べることができるのです。自分と空間の位置との関連性が曖昧になれば、自分どこに居て、どこに向かっているかが曖昧になります。やはり自分がどのような生活をしていたのか曖昧になります。これらは自分のアイデンティティにも大きく影響するものです。自分が存在しているという認識でさえ曖昧になり、不安感を抱く人も少なくありません。

このような過程で関連付けが行うことができなくなれば、それは悪循環になります。人はまた自分の認識を理解するのに環境とかかわることでその認識を助けています。ですから、ズレがはじまれば、それはまた大きなズレになっていくことでしょう。実際動きてみて、予想と違うこと(例えば今まで家にいたのに、急に道に立っている、夜だと思っていたのに、昼だと言われるなど)が起きればより自分自身の認識も悪影響を及ぼします。大きな事故や脳梗塞でもないかぎり、明日から急にすべて忘れたということはほどんどありません。多くは徐々に悪循環のループにはまっていくのです。そしてそれに伴い脳の構造自体も変化していくのです。器質的な変化も見られるでしょう。もちろん体質や遺伝的な特性によって認知症になりやすい、なりにくいはあると思います。ここではそれ以外の要因と可能性を探しています。認知症を動きを中心に置き換えることで私達がより様々な側面で理解し、できることが増えることが目的です。


4.動きから自分との関連性を再構築する

私達は無意識的に昨日何を食べたかを思い出す時、自然とその状況を思い出して夕食を思い出そうとします。状況を思い出さないようにすると、何を食べたかも思い出しにくくなります。昨日の晩何を食べたかでさえ結局関連づけができない限り、高性能な脳をもってしても簡単に思い出せないこともあるでしょう。関連付けができるということは高性能な脳をよりよく使う方法でもあります。ですから心に残るとても素敵な出来事や信じられないぐらい最低な出来事があれば、何年経っても覚えているものです。例え認知症の初期状で物事との関連付けに曖昧さがあっても、すばらしい体験は心や記憶に残る人の少なくありません。それはやはり関連づけが曖昧さの中だとしてもその時はっきり働いているからです。だからといって常に大きな出来事ばかりあると周囲も本人も疲れ果ててしまいます。日常的には関連付けの曖昧さに対して何らかのかかわりが必要です。

体の認識のズレが記憶力の低下の一つの要因であるならば、やはり動きにアプローチする方法が有効だと言えます。もう一度自分自身とのズレを見直していく必要があります。言い換えると自分と自分の動きの関連性を見直すところかです。例えば動きの混乱化タイプであれば、落ち着いた状況でもう一度ゆっくりと落ちついて物事と関わる環境を提供することで、動きの習慣化タイプであれば、いつもと違う体験を提供することで、動きの縮小化タイプであれば、少しずつ無理なく動きや行動を拡大することで自分との関連づけを再構築していくのです。(詳しくは前回の人の動きから考える認知症 3つの分類とアプローチを参照にしてください)
これらはすべてなんからの体験を提供することでもあります。私達は生活を通じて、また関わりを通じて「体験」を提供することができます。自分を再構築できるような体験を提供していくのです。(こちらも参考にしてみて下さい 体験を提供すること)

実際にある程度は動きの支援により、自分自身の認識が回復し、関連づけができるようになると、認知機能が高まる事例も少なくありません。動きの支援といってもピンとこないかもしれませんが、動きの支援をするということは「新しい動きをする体験を提供」しているのです。先日書いた3つの認知症の分類とアプローチを参考にしながら、キネステティクスなどを通じて人の動きを学んでもらえればと思います。人の動きは心や体、環境すべてが統合されたものですから、学ぶ価値はあります。統合とは関連付けなのです。脳の本質的な役割の一つは自分や環境に関連づけをすることです。動きの理解はその根本的な理解につながります。自分のためにも、ケアをしている人のためにも人の動きを学んでみることをおすすめします。最初はゆっくりですが、少しづつより色々な物事が関連づけて考えられるようになるでしょう。


リンク元
動きの学習とリハビリテーション研究会 Face bookページ
https://www.facebook.com/ugokinogakusyu

人の動きから考える認知症 3つの分類とアプローチ 谷口式2

09-24,2012

以前にも認知症の分類を書きましたが、より動きに特化して認知症を分類してみました。なぜ動きと言われるかもしれませんが、生活とは動きの集まりです。どんな動きの傾向があるかによって生活が作られるわけです。ですから動きにアプローチすることは生活そのものをアプローチすることと同じです。動きは精神も、身体も、環境も、感情も分けることはできません。活動、行動、行為、ふるまい、態度、色々な言い方はありますが、これらは動きを別の言い方で表現したものです。

まず動きの認知症分類をしてみましょう。

1.動きの混乱化タイプ

以前であれば若さやありあまる筋力を使ってできることでも、老いてからも同じ方法で行うことによって無理が生じます。社会の価値観も影響していると思いますが、いつまでも自分は若いと思い込みたいため、何にでも無理して若い頃の方法で行おうとします。しかし現実的に体は違うものですから、できることとできない事を把握できていないために、無理やり動く事になります。そうすると頭の中の若い自分と、現実の筋力の衰えてる自分とのズレが大きくなっていきます。地図を見る時、まず自分の現在地を確認して状況を理解するように、この世界は自分を基準に認識しています。ですから自分の認識がズレると徐々に自分や周りの解釈が歪んでいきます。こういった人は繊細にゆっくり動く事が苦手な場合が多いです。がさつに大きく動く方法しか知りません。一番良い頃に戻るというのはこのタイプの傾向です。人はこうでなくてはいけないという思い込みが強い人は、自分の老いを受け入れることができず、無理に若者のような優秀で活発な動きをします。一つの価値観にしばられて自分で自分を必要以上にいじめているのです。柔軟に動けないということは、思い込みに囚われているということでもあるのです。


2.動きの習慣化タイプ

毎日のほどんどを習慣的に過ごし、ほぼ自動的に時間が過ぎていく状態です。物事に対して習慣的な動きや行動を何も考えなくても行います。それは一見良い事のように思えますが、度を超えている場合です。ある種習慣化したパターンは多くの注意力を必要としないので、簡単に行うことができます。それは人間として必要な能力ですが、逆に習慣とは違うことができる能力も大切です。これが無いと同じことを何も考えず行うロボットのようになります。つまり過度に習慣化した生活のパターンが考える力を徐々に奪っていくのです。ひどくなるとほんとにロボットのように同じ動きを繰りかえします。動き方も固定的で慣れた反復的な動きや同じような行動を繰り返します。俗にいう常同行為です。人は毎日そういう違いのある生活を送れるわけではありませんが、大切なのは人は同じように過ごす毎日の中に小さな違いを感じ、喜んだり、悲しんだりします。常に同じように毎日が過ぎているわけではないのです。しかしこのタイプの生活はただ漠然と毎日が過ぎていきます。自動的に動き、自動的にご飯を食べ、自動的に寝る。このような反応です。色々とたとえもあり、個人によって違いますが、ご飯も食べるという行為さえも楽しむより、口に物を入れる行為に近い状態だと言えます。


3.動きの縮小化タイプ

最初は外出しないから始まり、部屋にこもりだし、ベッドにこもります。最終的には自分自身の中にこもってしまいます。そして手足を動かすことでさえしなくなります。これらの傾向としてあきらかに動きが減少しています。多くの場合なんらかの動くことに対する障害やストレスから始まっていることが多いです。文字通り動けないという障害、それだけなく、動くのがおっくうになる。動く事が単純にしんどい。何か動きたくない、行きたくない理由がある、出て行く理由がないなど色々な理由があります。これらに共通するのは動く事が少なくなり、それが徐々に目立つようになっていることです。最初は行動が、最終的には小さな動きさえも少なくなる。それはいきなり始まるものではなく徐々に悪循環として起こります。一つのきっかけがさらにより動く事がない状態へと導きやすいのです。


このように考えると
実は動きを変えることによって認知症にアプローチができます。
それを各タイプ別に見ていきます。

1.動きの混乱化タイプ

このタイプはゆっくりと動いたり、行動する機会を提供していくことで自分が何をしているのかを実感してもらいましょう。つまり生活の中に落ち着いて過ごす時間を提供します。落ち着いた動きになる環境を用意するとも言えます。リラックスできる雰囲気、そのままのあなたでいいですよというありのままを認めてくれる関係なども含まれます。本人が混乱しているのは、多くの場合、現実には老いた自分を若いまだまだやれる自分にこだわるから混乱します。あきらめろというわけではありません。老いた状態でもよりよくできる方法や動き方はたくさんあります。筋力がなくても、楽に落ち着いて、洗練して動くことは可能です。老いと戦い若者のような動きをするのではなく、成熟した落ち着いたゆっくりとした動きを獲得していくことで自分の可能性を違う方向で見つけることができます。そうすることで今の自分をよい意味で認め、「昔」を生きるのではなく、「今」を生きるころができるでしょう。


2.動きの習慣化タイプ

このタイプには新しい体験をする機会を提供し、新しい自発的な反応を引き出すことです。そういった機会を生活の中にもうける必要があります。ただ無理に何かをさせるのではなく、よく相手を観察しながら、反応を引き出し「違い」を積み重ねていきましょう。このように関わったらこんな反応がでた、じゃあ今度はこうしてみようという積み重ねです。1日の生活を観察し習慣化されたパターンに小さな変化がでればよい兆候です。ただそこで安心するのではなく、またそのかかわった方法がが習慣化されたパターンになってしまえば効果が薄くなります。だからこそ積み重ねる必要があります。つまり一度相手に変化があったからといって、その手法を繰り返すのではなく、常に援助者側も習慣化しないようにその変化を敏感にとらえ関わり方をかえるように注意しなければいけません。過去に成功したアプローチでもそれを習慣のように繰り返すと、新しい習慣を作るだけです。ですからそのアプローチを繰り返しても本人の習慣化を強めるだけなのです。プログラムなどを立てる必要もありません。常に柔軟に反応をみながらやり方を変え反応を引き出してください。例えプログラムを立て成功したとしても、関わり方を反応に応じて少ずつ変える必要があります。ここで大切なポイントは大きく変わる必要はありません。毎日の生活が大きくかわれば逆に習慣化のパターンが強い人はついていけません。そしてついていけないために、より今の習慣化のパターンにこだわります。ほんの小さい変化を積み重ねればかまいません。こちらからしたら小さな変化でも、本人にしたら充分大きな変化です。相手を変えようとしないこと。相手をかえるのではなく、自分が相手の小さい変化を発見できる能力や、援助者が習慣化していないかが大切です。


3.動きの縮小化タイプ

このタイプは無理なく、行動範囲を拡大していきましょう。行動や動きの拡大が好循環を生みます。ここも無理に引き出すのではなく、相手が自発的に楽に動けるようにかかわっていきましょう。そして少しずつ新しい場所を見たり、なじみの空間を動く事によって増やしていきます。楽に安心して動ける空間をとりもどすと同時に、楽に動ける動きを援助します。ここで重要なのは相手の反応を引き出すことであり、時間が要する場合が多いです。つまり援助者はすぐに結果を求めるのではなく、「待つ」という過程が必要なのこともあります。相手が止まっているときは、動き出すまでの必要な準備をしているのかもしれません。待つことができず、結果を求めてばかりいるといつのまにか、それは強要になり、より動きの縮小化をすすめていくことになるでしょう。また楽な動きを援助者が知っていることも大切です。楽に立ち上がるには、楽に起き上がるにはどうすればいいか?などそれらを知っているとよりよい提案ができるでしょう。


最後に

ここであげたのはすべて相手を変えるのではないということです。すべて援助者の行動や動きを変えることで、2次的に相手がかわります。もしそれで思ったような反応を得られない場合、相手をかえるのではなく、また援助者自身の行動や動きを変える必要があります。相手を無理に変えようとした場合失敗します。人は変えられるのではなく、自ら変わるものです。厳密に相手を変えることはできますが、多くの場合受け身にしたり、受動的にすることができるのみです。主体的にその人の人生を自らで動いてほしいと思う時、それを手伝うには援助者自身、つまり自分が変わることが大切なのです。

ということはまず、自分の動きや行動についてより知っていく必要があります。自分はどのような傾向があるか、どのような事を相手にしているのか。相手を助けようとして、相手の邪魔をしていることはよくあります。例えば相手のためだと思っても、動きや行動を強要した場合、多くの場合人はここで上げた3つのタイプの反応を示します。抵抗してもかなわず、強制されている自分を認めない(動きの混乱タイプ)、抵抗することをあきらめて、何も考えずそのまま強制されたことをする(動きの習慣化タイプ)、抵抗するのをあきらめて、自分の殻に閉じこもり反応が鈍くなる(動きの縮小化タイプ)

これらの分類は言ってみれば、3つの動きや行動の反応のパターンです。たかがか動きだと思うかもしれません。しかし動きの積み重ねが生活になり、人生になります。だからこそ動きを理解しアプローチすることはとても重要です。むしろ動きなくしてはアプローチでできないと思います。心と体はつながっています。そしてこれらと環境が合わさったものが動きなのです。動きを支援することは体を支援することはもちろん、同じぐらい心も支援するのです。もちろん完全によくなるものではないかもしれません、しかし動きを引き出すことはその人の可能性を引き出すことでもあります。また動きが良くなるということはよりよく生きることでもあります。その人の人生は動きの集まりだからです。だからこそ、認知症にかかわらず、動きを支援する意味があるのだと思います。私達は認知症をよくしたいと思うことと同様に、よりよくその人に生きてほしいという思いでかかわるのですから。

ここであげた分類も大切なのですが、動きを通じて自分は相手にどんな影響を与えているのかを見つめることがもっとも大切だともいます。自分を見つめながらこの分類を生かしてくれれば嬉しいです。それはきっと援助者自身の認知症の予防にもなり、またよりよく生きることにもつながるでしょう。

動きと空間 自然に動くということ

06-09,2012

今回は勝手な思いつきで、また内容も抽象的かもしれんので気軽に見てください。
あくまで思いつきなので参考程度に見てください。ちょっと言葉にする練習をしてみたくなりました。
今回は専門的かつ適当に書いているのでわかりにくかったらスルーしてください。


私たちは動く時、常に空間の中で動く。
もっと突っ込んでいうと、自分の動ける空間を知っているから動く。
それも無意識的にその空間を使うことができる。

つまり空間を知覚すれば、無意識的に動きは自然に発生する。
この空間というのは体の中の空間もあり、体の外側の空間もだ。
(たぶんのこの内側、外側の空間の理解はキネステやっていればわかると思います)

自分を認識している時、常にどのような空間の中に自分は存在してるのかということを把握している。
もし自分の周囲がどのような空間かわからない場合あわてて周囲を動き探索するだろう。

そう、自分の動きと周囲の空間(また自分の中の空間も含めて)は常に密接に関係している。
無意識的な動きをしている時でも、また無意識的にそこに動ける空間があるから動けるということを脳は理解しているように思える。

無理に動こうとしても、自分が動ける空間に気づかなければ動くことはできない。
つまり動きをより引き出すためには、空間を知覚することが大切だ。

多くの人は同じ空間を使い、そして習慣化した動きを限られた空間の中で行っている。
自分がこの他に使える空間があるなどイメージすることができない。

しかし、空間がより使えることを知覚すると、自然に動きが起こる。

もちろん動きと空間は相互的だ。動く事で空間をより認識することができる。
ただ無理に動かされてても、雑く動いても空間を知覚できない。

そう同じような動きをしても、感じるか、感じないかで真逆の結果になる。
雑に動かされれば、自分の体を感じることはできないし、
空間の中を動いていたとしても、動かされている限り新たな空間を知覚することはない。

動かされているとうのはこの知覚のプロセスを邪魔をしている。
つまり動きを感じること、空間を認識することを奪っている。結果感じれないため悪循環になる。

病院や施設の患者さんにも同じことがいえる。
障害で動きが少なくなり、その結果周囲の空間に対する認識も少なくなる。
どんどん動きが少なくなると同時に相対的に使える空間も少なくなるのだ。

空間の認識が狭くなれば自然と動くこともその空間内で行われるようになる。
とても窮屈だ。不思議なことだが、動きを減ると本当に周囲の空間の認識も変化する。
そう人は空間を忘れていく。これは正常な人でも閉じこもると発生する。

逆に外へ出かけるとか、部屋から出ることで、自然と空間を認識する。
空間との本人との関係性を強めていけば、そこに自然に行くようになる。
それは自然に。例えばベッドから起きてトイレに行くぐらい自然に。

本人に認識の中で狭い世界ならばそれがすべてと思いその中で生きていこうとするだろうし、広い世界ならより自分が広範囲に動けることを知るだろう。

肩の動き一つとってもそうだ。自分が限界だと思った肩の位置はある意味、空間の限界でもある。
だから肩の限界の位置からゆっくりと丁寧に(痛めないようにして)他に動ける空間を探せば、以外に他の空間、もしからしたら限界だと思っていた位置以上に動くことができるかもしれない。そのときは体の内側の空間も上手く使っていることだろう。

それも一度認識してしまえば、自然に起こる。

そして自然に起こることに気づくことが大切だ。

自然に起こるという反応は脳と体が統合された時の質の高い反応だと思う。
自然に起こったことに気づくなということではなく、逆に自然に起こったことに気づきましょうという話。
無理に動かすと気づきをじゃまをするし、体の自然な反応を逆に抑制する。

無理な動きは多くの場合考えすて感じることをしていない動きとか、力が入りすぎて、逆に自然な動きを邪魔している。
つまり脳の知覚を邪魔していることが多い。感じることができ、そして知覚し、脳が変化するからこそ、自然な動きとして表出するのだ。感じない動きはこの逆になる。つまり感じないことで、脳が変化し、無理な動きとして表出する。いずれにしても脳は変化として学習するがまったく質の違うものになる。

だから探索という知覚を主役とした動きを使い、結果何が起こるか観察する。
そして自然に起こることを受け入れるのだ。そのような動きを許したとき、新たな気づきが生じる。また気づきも意識できるものから、意識しない気づきも存在すると思う。とにかく探索する動きをすれば、空間や体に対する認識が変わり、結果動きが変化する。この変化を援助者が上手くとらえれるようになれ、またその動きをつかってさらに展開することができる。

もちろんこれらの知覚は空間を直接感じるわけではなく、ほんらいは主に固有覚によって体の中の感覚や外側で動けるということを感じる。そして動きが生じた時、そこに空間があると認識する。

だから人の動きを手伝うとき、空間を認識することを手伝えばいいんじゃないかと思うこのごろ。

それは関節を動かして新しい空間を発見すること、社会的な新しい場所を発見することは本質的に変わらないように思える。

そのためにはまず自分の体を感じることが必要かもしれない。あるいは体を感じながら空間を広げることが必要なのかもしれない。その変はまた検討しよう。

かといってもいきなり広く認識することは難しい。動きが比較的少ない止まっているような姿勢(私たちは一定の姿勢をとっている時もその姿勢を保つため動きが発生している)からよりダイナミックな動きと広げていくことが現実的かもしれない。

言い換えると自分の場所を感じ、そこにある存在できる空間を認識し、そして少しずつより動きを感じながら、動ける空間を認識していく。つまりより少ないほとんど動いていない単調な動きから、少しずつ様々な動き、大きな動きや複雑な動きへとつなげていくことがいいかもしれない。自分の体の認識が先か、空間が先、どちらが先ではなく常に相互的に発達していくもんなのかなと。

これもあくまでも一つの考え方として。まだ考え中です。




予後予測は患者さんの可能性を奪っている

06-04,2012

リハビリの世界には「予後予測」ということをよくする。
もしくはリハビリテーションゴールという言い方をしている。
患者さんの予後(到達できるゴール)を予測して、それにあわせてプラグラムを作っていきましょうという考え方だ。もしくは今の患者さんの状態に対してこのくらいのプログラムをすればこれぐらいの結果がでると予想することだ。

よく考えてみるとこの考え方は相当矛盾している。
根本的な事を忘れている。

「人は未来の事を予測できない」

何を当たりまえの事をいうが、人は未来を予測したい欲望があるみたいだ。

例えば株でもそうだ。
少し詳しい人なら知っているとおもうが、ファンダメンタル分析やテクニカル分析などのあらゆる高度な手法を用いて株の値上がり(あるいは値下がり)を予測する。
それで実際予測できると思っている人は多い。
そういう人がもし予測が外れたらどう思うか?
それは自分の勉強不足だったのだと思うだろう。

だからよりそういった分析手法を極めようとする。
そういう人はいつまでも現実をみれないので、その状態で株で儲けることができる人は少ないと思う。

ほんとにもうけようと思うなら、そういった手法を参考にはしつつ、現実的な状況の変化に適した方法で行動できるここが大切だろう。意外に思うかもしれないが、株は自分自身をしっかり見つめることが大切だという意見はほとんどの人が一致する。それは今の値動きに向き合っている自分自身をおろそかにしないということだろう。

これがまったく同じようにリハビリの世界にある。
色んな手法を使ってましてや株よりもより複雑な人という未来を予測しようとする。
だけど上手くいかないことも多い。そして間違っているのは自分の勉強不足だと思っている。
中にはそれで自信をなくしてしまっている人がいるのは非常にもったいない。


そもそも人が未来の事を予測することはできないのだ。
あなたは自分自身の未来でさえ予測できないのに、他人の未来なんてわからない。
いくら一般論を学んだとしても、目の前にいる人はそれぞれ違う。

大切なのは予測できないことを現実としてとらえ、「今」どうするかという発想だ。
そういう発想を持つことができないと、上手く現実に対応することができない。

例えば、ここまで回復するという予想は、その人の限界を決めることにもなる。
現状の医学では片麻痺とか、パーキンソンとか色々あるが、完全に理解しているわけではない。
わからないものに対してわかったつもりになっているだけだ。

予測するという考えの中に、その人だけの変化としてとらえている人が多い。
パーキンソン病は何年後かには動けないという予測を立てたとする。
実際その通りになった。
だからなんだというのだろう。

予測どおりだからそれでいいのか?
本人はそれで幸せなのか?

もしかしたら自分のアプローチが良いものであるならそうならない可能性だって大いにある。
実際、自分がアプローチすればそうならない、もしくはそれが遅くなる可能性は高くなると思うし自信はある。
パーキンソンを治せはできないが、パーキンソンだとしても上手く動けるよう学習することはできる。
それが機能的にいつまでもある程度筋の柔軟性を保つことができる。
少なくとも圧倒的に普通にアプローチするより変化は期待できる。

ほとんどの人はパーキンソン病の人に筋トレさせて、より体を固くさせている。
ストレッチをして伸張反射を誘発させている。
そんなことをすればより体を固くしている事を助けているだけだ。
より動けなくさせていることを促進させているだけだ。

だけど進行性の疾患で予後はこうなんですよ~と話せばほとんどせめられる事はない。
予後予測はある意味、セラピスト側のいい訳にもなっているんじゃないかと思う。

長々と書いたがまとめて言いたいのは

「予後を予測する行為は患者さんの可能性をつぶしている」

大切なのは予後を予測するのではなく、今の状態をしっかりとらえ「今できること」を精一杯していることではないだろうか。
患者さんの可能性をしっかり「今」みつめていく必要があるのじゃないだろうか。
もちろん進行性の疾患というのも現実だ。だからこそ、しっかり患者さんの今の可能性を見つけてほしいと思う。

※予後予測することは言い換えると目標を固定化しているとも言えます。固定化された目標にとらわれると現実がみえず、目標に振り回されてしまいます。今できることを一生懸命するというのは、常に変化をとらえ、その人にあった方向性を常に確認、修正しながら進めていく過程であると言えます。どんな目標を立てるかよりも、どのような過程で患者さんにかかわったか、そして自分がかかわった結果とどのように向き合っていくかのほうがよほど大切です。よりよいプロセスは自然とよりよい変化を生みます。つまりどんな目標を立てるか(どんな予後予測をたてるか)ばかり見ていてもあまり役には立ちません。どのように関わっていくかというプロセスを質のよいものにすれば、自然とよりよく柔軟に、より患者さんに役にたつものになるでしょう。「目標を立てる」「予後予測をする」という特別な事をしなくても、過程の中で自然に「セラピストの意図」として現れるものです。つまり過程の中で生まれるものですから、目標(意図と言った方が適切)はかかわりの中で生まれ柔軟に変化するということが大切です。目標を固定化して、そこに向かうことは大切な「過程」をおろそかにしています。


リハビリゴールを設定しないならどう関わればいいのか混乱する人もしるかもしれない(正確に言うなら退院という関われる時間内でたどりついたのがゴールだと言ってもいいが、患者さんからするとそれはゴールではなく、新たな生活の始まりでも、そこからの方が挑戦なのだと思う)

大切なのはより患者さんに役にたつかどうかで、リハビリの流れにこだわるかどうかではないからだ。そしてある意味慣れた習慣を変えるには混乱が必要なのだ。混乱しながら新しい考えを試し、理解していくものだ。

予測なんてしなくても患者さんにできるだけ精一杯かかわって、できるだけ機能を上げるお手伝いをして、そして退院日に近づくとき精一杯あがった機能でどう生活していくを考えたほうが、予測して決めただけの状態にあわせるよりよほど現実的だ。

一方的に能力がここまでと他人に判断される態度自体が患者さん受け身にさせている。それよりも患者さんと一緒によりよくなるにはどうしらいいのか考えていく方がよほど、患者さんは自分の体に向き合い元気になる可能性は高いだろう。


人生はリハビリのゴールになったから終了ではない。人生は続いていくし、変化していく。だからこそその時、その時の「今」をとらえよりよく生きていくことを手伝える人が増えれば素敵だと思う。

そんなセラピストが増えないかなあと実は願っている。少なくとも僕の後輩は気づいてきているようだ。

※これはリハビリやケアに関しての意見です。手術などのアプローチには予後を予測する必要はあります。しかし手術が終わった直後から、予後を予測するよりも今の状態を見る方が有効な事が多いと思ってます。

機能的な動き=「筋力(構造)」×「使い方」

05-05,2012

LCMACホームページより抜粋。
最近地味にホームページをリニューアルしました。
この内容に付け足してます。

人は加齢や障害と共に動きにくい人が増えますが、体にマヒがあることや、筋力が低下していることと動けないことは必ずしも一致しません。むしろ筋力があっても体の「使い方」が良くないと動くことはできません。もしくはすごくぎこちないものになります。

逆にいえば筋力の低下やマヒがあっても体の「使い方」を工夫すれば動くことができるのです。効率のよい動きはほとんど筋力を必要としません。筋力があっても無理に動けば、その筋力は自分を動かす事だけに使われず、自分自身を痛めてしまいます。これを読んでいる皆さんも腰や肩など痛めてはいませんか?それも自分の体の使い方が上手くないのです。

医療は福祉の現場では多くの場合動けない問題が起これば筋力が低下していると分析されました。特にマヒ等がない場合はその傾向が強いように思います。しかし体の「使い方」が問題な場合、筋力があっても使い方を学習しなければよりよく動くことはできません。「使い方」を教えずに鍛えられた筋力は自分を痛める要因を増やすこになりかねません。私はセラピストとして老人や障害をもっておられる方に関わってきましたが、動けない理由で今まで疾患や筋力の問題にされていた人も 体の「使い方」を変えることで今までできないような動きでさえできることも少なくありません。マヒがあってもなくても体がよりよく動けるように使い方を学ぶことは必要です。

(ここからつけたし)

機能的な動きは、筋力と使い方であわらすことができます。
つまりこのような関係です。

機能的な動き=「筋力」×「使い方」です。
※話の流れ上、筋力にしていますが、ここは筋力も含めた「体の構造」してとらえる方が適切でしょう。

いくらあふれんばかりの筋力があっても、使い方が上手くなければ動くことはできません。
つまり機能的な動き=「筋力 1000」×「使い方 0」は0です。

ちょうど高性能のロボット(ガンダムみたいな)でも操作ができない人が乗り込むと、動けないことに似ています。
逆に低性能のロボットでもパイロットが優秀だと、ある程度機体の機能をカバーできます。

テレビゲームで、サッカーや野球をしていて弱いチームを使っても、操作が上手い人だと優勝してしまうのと同じです。
これは機能的な動き=「筋力10」×「使い方 100」は1000です。
※特に数字にする意味はありません。わかりやく表現するためだけに使っています。

体は老化とともに、体の性能は低下します。だけども人は年をとっても学習することができます。
つまり学習をすることで自分の中のパイロットを優秀にすることはできるのです。

年寄りはいくら筋トレしても筋力を20代のころのように戻るひとはいません。筋力がついてもやはりわずかです。100歳の人が走り回っていれば奇跡です。だからそういうような人がいると珍しがられるのでしょう。ですから使い方を変えない限り動くことはできません。鍛えて筋力をつくのを待つのだけではなく、今ある体をより効率的に使うこともする方が現実的です。また筋力をつけようにも、使い方を犠牲にしている場合が少なくありません。

上手くアプローチすると90歳で外出した事を忘れるぐらい記憶障害があっても週1回×4回程度で体の使い方を学習しスムーズに立ち上がれるようになってました。今日リハをした人は体全身が固かったのと、浮腫、軽度の尖足で、なんとか両手を支えてもらって歩く事ができる状態でしたが、体分けて扱うこと、体重を上手くのせる事を学習することでわずかに胸郭に片手で触れるだけでほぼ独歩で歩けるようになってました。一回のかかわりでです。この人も家族さんは認知症だと話されましが、最後には大きく驚かれてました。筋トレは一切していません。これらはすべて体の学習を結果です。

よほどの事がない限り、適切に行えば人は学習できるのです。
「使い方」に注目すれば、機能的に動く事は可能です。


LCMACのホームページ





あきらめのICF

04-24,2012

ICFは身心機能がどうにもならんから、活動がよくなることに視点を置いたあきらめの概念ではありません。

人を全体的にとらえることで、心身機能もより機能的に使うことができる考え方です。
活動の質が良くなる事で心身面がよりよくなることも、また環境が変わることで、心身面の機能の向上は充分期待できます。

つまりICFとは人をロボットのようにとらえた部分的なアプローチから全体的なアプローチへ以降の象徴です。

ここを勘違いするとなんとなく福祉用具を使って、活動ができばいいなどと安易に考えてしまいます。それが結局無理な動作の連続で利用者さんや患者さんを弱らせることも考えられます。

また無理やりにでもさせる活動になってしまいます。させられるADL、させられるレクリエーションも、一見活動ができれているように見えますが、意欲を奪うだけです。

リハビリでも、自分のアプローチの責任を進行性の疾患や年齢のせいにしてしてしまって、「維持」という都合のよい言葉の上で行っている場合が多いよう思います。その人の体にあった使い方を伝え、機能を再構成することはなく、ただ単に同じ事を何度もしています。そしてその人の可能性を発見することはなくなります。

これらは部分的な理解をもとに生じる悲劇です。ICFは今までアプローチが部分的な理解で行っていことに気づかせてくれる道具です。どうかあきらめのICFとして使わないでください。

全体的なアプローチをICFをもとにやってみませんか?



関連記事
生活モデルやICFで誤解されがちもの


認知症 生活分類とそのアプローチ(谷口式)

03-14,2012

現代のメカニクス的な医療では認知症をとらえることは難しい。
脳梗塞での高次脳障害を認知症とさえ呼んでしまっていることはよけいにいただけない。

そしてアプローチが方法論になっている。
日記を書くとか、パソコンをするとか、水彩画とか。
はっきり言ってそんな事はどうでもいい。

知的な事は刺激になる?そんなわけはない。
そもそも知的ってなんだ。パズルか、パソコンか、計算か。

人間はそんなに単純ではない。

はっきり言って認知症になる大きなキーワードは生活だ。
今の医療が忘れているものが人の生活だ。

認知症のリスクが高い生活は大きく分けて3つある。(認知症の生活分類 谷口式)


若いまま生活するタイプ(現実生活否定タイプ)
老いるという事を認められない人。若いときのイメージしか自分の価値を見いだせず否定してしまう。そしてそのまま自分を認めないまま生活していく。今まで物事をきっちりしたきた人や、人より優秀で何事も完璧にしてきた人が、老化によってできなくなってきた時に、自分はそんなはずではないとと現実を認められなくなってしまう。
若い時のイメージの実際の老いている自分のイメージのずれが、現実の自分を認められずいつの間にか、妄想の世界の中に生きることになる。例えば老いているのに私は20歳だとという認知症の人を見た事はないだろうか。それはどんどん進行していった場合だ。最初はわずかな自分の認識ののずれが、大きなずれとなる。

毎日同じパターンタイプ(反復生活タイプ)
毎日同じような生活をひたすら送ると、それは習慣となり、考えなくても、何も感じなくても生活できてしまう。ほとんど自動的に送る生活は、本人をロボットのようにしてしまう。自分から新しい体験をするということさえしない。それが進むと一日中同じことをずっと繰り返す。

ひきこもりタイプ(生活範囲縮小タイプ)
これは毎日同じパターンタイプとよく似ているが、決定的に違うのははどんどん生活範囲が小さくなるという事だ。毎日同じパターンタイプは習慣的なパターンの繰り返しが原因だが、こちらは動きや行動そのものが少なくなる。家の中に引きこもり、部屋に引きこもり、ベッドに引きこもり、最終的に自分の中に完全に引きこもる。排泄さえも時におっくうになるし、体が弱れば現実的に難しくもなる。そして生活が縮小するにつれ、それに比例し本人の反応も低下する。


もちろんあくまでもここで挙げたのはあくまで傾向で、認知症を理解するための道具にしかすぎません。もちろん人それぞれ認知症になりやすいタイプの人やそうでない人など体質的にあるかもしれないが、遺伝的な傾向は今の医学では現実的に変えることは難しい。うまくこれを道具として使うほうが現実的だろう。また脳梗塞による高次脳障害は認知症とまとめて考えるのはよくない。部分的な脳の機能は確かに低下するが、それが認知症の原因ではなく、部分的な機能低下が生活の生きにくさになり、生活の変化になり認知症になる。やはり生活が原因なのだ。高次脳障害は生活を支えながら、脳の可塑性を促せるようなアプローチが有効だ。それはまた別の機会に書きたいと思う。大切なのは高次脳障害と認知症を一緒に扱わないことだ。また認知症と似たような症状もあるのでしっかり検査するのは大切だ。病院は検査するのには非常に優れた場所だ。ただ認知症だとわかった場合はうまく病院と関わりながらも生活をサポートする支援が欠かせない。

実際にはこれがミックスされていたり、状況によって変わることもある。
また周囲の人や家族の影響が大きいことも忘れてはいけない。家族が改善する事ばかり求めたり、元気なころの状態ばかりを求めると無意識的にも自分を否定することにもなる。そう生活は個人だけでよる物ではなく、環境によるところが大きい。つまり認知症は環境を含めて考えていく必要がある。そして家族や周囲の人は、本人ではない。あなたが周囲の人だ。本人を無理矢理変えようとするよりも周りが変わるほうが無理がない。認知症を理解する時一番理解しなければいけないのはその人を囲う周囲に人々だ。周囲とはなにか、それは援助するあなた自信の事だ。なぜならそこしか変える事ができなからだ。認知症のアプローチでは自分自身が本人や本人の生活にどういう影響を与えているか知るといことはかなり大切だ。そこを忘れてはいけない。本人ばかり見ていては一向に解決しない。寄り添うケアがしたいのであれば、寄り添う自分を知る必要があるのだ。それをふまえると例としてこんなアプローチが考えられる。もちろん例なので、エッセンスを自分なりに利用してほしい。


現実生活否定タイプ
まず周囲が期待する事をやめることが大切だ。症状がひどくなっても、まだ若いころ、もしくは認知症になる前の状態を求めるのは症状を悪化することになる。認知症が改善しようとする関わりは逆効果だ。記憶訓練なんてもってのほかだ。今すぐやめてほしい。言葉に出さなくても、そういった周りの態度が逆に本人は若かりしころや、もしくは脳の機能がしっかりしていた時の自分を追い求めるきっかけになる。そういう事はやめる事が、逆にその人の状態を良くすることになる。そして一番大切なのは今のそのままの本人を認めることだ。認めるといっても、ほめろとかそんな事をする必要はない。うすっぺらい褒め言葉は、その人は誰かに認められようとしてまたありのままの自分を認める事を邪魔するだけだ。じゃあどうすればいいのかというとただ一緒に生活を楽しむだけだ。その人と何をしてもいい。何かをしたから有効とかそんな単純なものではない。逆にいうと活動にこだわるのではなく、時に出かけたり、ときに一緒にご飯を食べながら周りは楽しめばいい。会話を楽しむだけでもいいだろう。そんなかかわりが、本人自身がありのままの自分を認めるきっかけとなる。大切なのは周りが本人と一緒に楽しもうということだ。


反復生活タイプ

このタイプで大切なのは生活の中にいつもと少しだけ違う要素を入れていくということだ。同じ生活を自動的にしていることが、反復生活タイプの症状を強くするのだ。だからこそ日常生活に違いを作る必要がある。そういうと多くの人は無理からでも新しい事をさせようとするが、これは逆効果だ。無理矢理なり、なんとなくなりする趣味活動やなんてものは一切やめたほうがいい。ここで一番大切なようそは周囲の態度だ。どんな態度かというと押しつけをやめるということだ。「私がもしこの人の状態だったら何を望むのか」このような考えを持っている人は一番危険だ。それはあなたはあなたであって、あなたは相手ではないからだ。まずは「相手の立場にたってこの人は何を望んでいるか」という態度に変えていこう。たとえそれがあなたの価値観になくても、常識はずれでもそれがその人にとっては適切なことなのかもしれない。そして相手をよく観察しよう。相手に自分の価値観を押し付ける時、実は相手の反応をよく見ていない。それは「このようにかかわれば絶対によくなるはずだ、よろこぶはずだ」というの前提にあるから押し付けるのだ。明日もあさってもその人の事を同じだと考えてしまいがちである。ここで身つつける周囲の態度はその人は変わるという事だ。明日と明後日では違うし、朝と夜とでも違う。そういうった態度を身につければ習慣的にしている援助も毎回少しづつ違うことが見つかる。それは周囲から見ると一見違いはないかもしれないが、質でいうとまったく違う。

あなたがたとえ習慣的に同じように関わったとしても、相手の違いが認識できれば、それはまったく違ったものになる。押しつけをしていることは機械の流れ作業と同じだ。だけども押しつけをやめ、毎日の違いがみれるようになると、同じ事をしていも、まったく質の違う物になる。変化を認識できるとたいそうに趣味援助します!なんてしなくても自然と生活の中に違いが生まれる。もちろん色々と提案してもかまない。趣味がだめなんじゃなく、その関わり方が大切なのだ。やってみて駄目なら、また違うかかわりをする。それを繰り返していくことが大切だ。アプローチが失敗してもいい。もしろ大歓迎だ。しかしけっしてその活動がさせられているものになってはいかない。あくまでも本人自身が主体的にすることが必要だ。主体的に取り組んだのなら、結果はなんでもいい。だから常にうまく行くように見張っている必要はない。失敗してもいい、大切なのはその人が主体的に活動しているかどうかだ。むしろ主体的に失敗する体験を奪わないでほしい。命に関わるような大きな失敗だけしないようにサポートすればいい。ただ押し付けないからと言って相手の言われた事をなんでもする必要はない。横並びの関係の中で自分のアイデアで押しつけでず、提案していけばいい。たぶん普通に落ち込んだ友達とかに、ご飯食べにいこうなんて誘ってないか?それと同じことだ。そして何かをするよりも繰り返し、反応をみていく態度こそが、その人が安心して新しいものを試すことになる大きなきっかけとなるのだ。大切なのは手段じゃない。どうかかわるかというそのプロセスにある。まずは日常に些細な違いを認識していこう。そしてその反応を大切にしよう。そのような違いを認識する能力が介護者に求められる。


生活範囲縮小タイプ

このタイプは一番大切なのは人間関係だ。人は人間関係が途切れた時、生活範囲が狭くなる。つまり人間関係をうまくサポートできるようにすることが大切だ。かといって友達100人できればいいなとかそいうものではなく、大切なのは量ではなく質だ。10人の知り合いより1人大切な人だ。それができればその人に会いたくなるし、何かをしてあげたくなるものだ。人は人間関係の中で生きている。無理矢理引きずりだすのでなく、その人の居場所を作っていこう。また忘れてはいけないのが、このパターンがひどくなると食事や排泄、入浴といった人間の基本的な生活させも困難になる。多くの場合引きこもることによって心と同時に体の機能も加速度的に低下する。これらの日常生活がすでに難しい状態の人は、まずはこれらを適切に支援することが大切になる。つまり食事は排泄や入浴(清拭)をベッド上で行うのではなく、うまく身体のサポートをしてこれらが気持ちよく行えることが必須だ。しかしここにも人間関係が必要だ。むしろそういう基本的な生活を支援する時、人間関係が一番必要になる。排泄の処理を、食事を口に、裸を人に見せる時、誰が嫌いに人にされたいか。それでは最終的に自分の奥そこに引きこもり、反応さえもしなくなるだろう。利用者さんと交流したいというのなら、これらの活動を通じてお互い信頼関係を気づくことが大切だ。その人間関係がさらに外にでるきっかけになるのだ。

言葉で会話を交わす事だけが交流とは思わないほうがいい。むしろ言葉以外のときの態度の方が大切なのだ。例えば身体的な介助をするとき、相手の動きを尊重せず物みたいに体を運搬すると、相手はジブンのことをただの荷物だと認識することが多い。触れるということは実は母親と子供が最初にする実に原始的なコミュニケーションであり、人間に深くかかわるものだ。笑顔で立ちましょうかと、無理矢理体を引き上げららえて痛い思いをするということは、笑顔で体を引きちぎろうとしているのと対して変わりはない。言葉だけでなく接触することもコミュニケーションだと念頭において信頼関係を作っていく必要がある。多くの人は言葉の理解が先に難しくなり、最終的に言葉での理解よりも、言葉のトーンや表情、その人の雰囲気、触り方などで心地よいのか、不快なのかを判断する傾向が強まるように思う。より非言語的なコミュニケーションが重要視されるだろう。

※余談ですが、介護や医療系の接遇研修において、相手をどのように触るか、介助するかというものが入っていないものはあまり役にたたないように思います。触り方が雑いといくら言葉はきれいでもかなり不快です。本当に接遇をよくしたいのならば医療や介護現場では接遇教育の中に触り方や介助能力を高めていくようなものが必要だと思います。


よりよい生活を支えるのは質だ。量ではない。多くの人は生活を変えるという時点で量をどうにかしようとする。何をするのかではなく、どうかかわるのかだ。そして相手を変えるのではなく、自分を変えるのだ。それは援助している人が柔軟な生活をするきっかけにもなる。つまり援助者の認知症予防もしていることになるのだ。一石二鳥!実はこれは何も認知症に限ったアプローチではない。認知症だけに通じるものなんてない。認知症でもひとそれぞれだ。だから人間としてアプローチする考え方でないと通用しないと思う。

この分類とアプローチをよかったら使ってくださいませ。これは今までの自分の経験と体験、そして学習してきたものをもとに作りました。役に立てれば幸いです。

筋肉と張力

05-27,2011

twitterにも書いたが約一年ぶりぐらいにジョギングをした。

ちょっと雨がやんでいたのでいいかなぁとか思ったが、
最終的に降ってきて結構濡れた。

一年前に比べると明らかに体のとらえ方が変化している。
より繊細により細かくコントロールできる。

明らかに体の認識が変化しているのがわかる。
これは学習の成果ただと判断してもいいと思う。

最近筋肉について考える事がある。

筋肉をちゃんととらえる事は実は難しい。

鍛えることで体を動きにくくしてしまう事もあるし、
体を動かすのに実はほとんど力なんていらない。

ではどういう風に筋肉の存在をとられるのが適切なのか。

学校では教えてくれない新しい筋肉の特徴をあげてみる。

1、筋肉は実は部分でなく常に全体が動いている。肘を曲げるにしても実は脳が全体を調整している。単純に上腕二頭筋と三頭筋の話ではない。
2、スムーズに楽に動くためには筋肉の緊張が邪魔になる。多くの人は筋力がないか動けないのではなく、緊張が強いから動けない。
3、しかし筋肉がまったくないと姿勢と保つこともできない。ごくわずかな筋肉は全体としてバランスを保つために必要だ。緊張が少なければ少ないほど楽に立てる。
4、動きが起こるとき、緊張は筋肉だけでなく、体の軟部組織(靭帯なども)も体を動かす張力として全体に働いている。筋肉だけで動いているのではない。

こう書くとみごとに学校で教えてもらっている事の逆だなぁ。まぁそれはいいとして。

ここで疑問が起こる。楽に動く事は筋力がほとんどいらないというのは明確な事だ。だけどよりよくとび跳ねたり元気に動きまわりたい時筋肉の出力はどう理解したらいいのか。

きっと部分だけの出力を上げようとして鍛えてしまえば、筋肉はその部分の緊張を強め全体のバランスをおかしくしてまう。

だけど全体的にバランス良く張力を強めることができなら、より機敏な動きが自然にできる。また同時に強める必要がない時は弱めておくことができれば楽に過ごすこともできるし、動きを制限することはない。

つまり緊張が少なく骨格を上手く使ったニュートラルな状態から、緊張を強めバネのように動くことまで一連の流れがスムーズにいくように筋肉を扱えばぽフォーマンスは上がる。(もちろん上げる事はしなくても体は動くことができるが)

今のところの結論として
筋肉を鍛えるなら絶えず全体の張力を調整できる使い方も同時に練習する必要がある。
もちろんそのためには骨格を上手く使うという事も含まれる。
この張力を全体的に使うと言う事は体の軟部組織も含めて使うという事。体には色んなばねがある。
そのばねを緊張によって止める事はなく、より全身が筋肉と協調的に動かすような使い方を練習する。
その中で筋力があがっていけばより、しなやかで柔軟な鞭のような体を手に入れる事ができるんじゃないかと思う。

まとまりなく、また変わるかもしれないが、
今はこの辺で。




観測すること自体が影響を与えている。

05-17,2011



人を観測する時、観測者の影響を忘れてはいけない。量子だって観測する事で影響するのだから。
安易な評価とか評価法とか観測者の影響を考慮に入れていないのは安易すぎる。

例えばHDSR FIM まぁそのたもろもろ。考えてみればあたりまえの話です。


あっそうか。
量子力学では人が見ることによって影響を与えてると言われている。

長年の僕の疑問だった。よく車に乗っているとき、となりの人をふとみると向こうもこちらをみているわけじゃないのにそれに気づくということってあるじゃないですか。その人が後ろを向いていても関係ないじゃないですか。
なにか目力みたいなものがあるんじゃないかと思ってたんですよー。目から見えない何かがでているとかそんな事を考えたり。

実際細かいところはわかりませんが、実際に観察するという行為は物質に影響を与えている可能性は高い。僕の長年の疑問は量子力学にあるのかも。


けっこう科学の法則はおもしろいよ。
もうひとつ有名どころを載せておきます。





どうかんがえるのか自由ですが。

アインシュタインの相対性理論のAでもありBでもあるというは

結構世の中の真実かなと思ってます。

ほとんどの物事って決めつけた時点で真実ではないと思います。

世の中はきっとしっかりとしたあいまいさの中でできているのではないかと思ったりします。


今日はちょとマニアックでした。いつもマニアックですけど。

福祉をシンプルに

02-01,2011

いつから福祉は難しくなったんだろうと思う今日この頃。

ケアプランとかなんちゃら援助計画書とか横文字や漢字の羅列ばかりでよくわからん。

もっとシンプルでええんじゃないかと思う。

幸せに生きることができるように。

笑顔で過ごせる事を手伝う。

そして僕らも心が温まる。

いつのまにか難しい事が目の前にありすぎて大切な部分が見えなくなっている。

そこを忘れたら書類ばかり作ってるだけになってしまいます。

高尚な理念なんかもいらん。

それより泣いたり怒ったり笑ったり。

もっと人間臭さが欲しいな。



手洗い、清潔、免疫力向上

12-17,2010

冬は乾燥の季節です。
ノロやらインフルエンザなどの季節になってきましたね。
嫌ですねー。
施設で働くと流行するとものすごくしんどいですし、おとしよりの負担も高まります。
職員も利用者もしんどい悲惨な状況を作り上げます。

感染防止委員とかが施設でありますよね。
平たくゆうと消毒と菌を近づけないという事を主にやってます。

だけどそれだけだと不十分だと思うんです。
また消導や清潔を保つことも大切ですけど、他に重要なものを忘れてませんか?

一番感染防止をするために大切な事は何か。
それは免疫力を高めることでないでしょうか。

もちろん手をあらったり、清潔を保つという事は非常に重要なことです。
だけど僕らの体には免疫というものがあり、またその免疫が絶えず機能しているのも事実です。

菌やウィルスに接触しても感染する人としない人がいますよね。
その大きく運命を分けるのはやっぱり免疫力です。

完全に無菌にするのは不可能ですから、まず免疫力を高めるというベースがあってこそ、消毒なりする意味が確かになってきます。

免疫力が弱い集団だと1人が書かると一気に広がりますね。
だけど免疫力が強い集団だと1人かかってもその感染も弱く、また広がることも減ります。
また感染しても軽度ですみますね。

今まできっと免疫力を上げる方法を見つけるのが難しかったのだと思います。
またそれは数字にもしにくいものです。
だからこそ皆大事だと思っているけど手をつけていない領域であると思います。

免疫を上げる方法は実はシンプルです。

1人1人が生き生きと過ごせること。

これだけです。

体と心はつながっています。
心も体も生き生きと過ごせることができれば元気ですごせます。
僕らもそうですよね。

何か生き生きと過ごしているときは体が元気だと思いませんか?

笑えば免疫力があがるもの有名な話です。
なにも笑うことを無理からしなくても自然に笑顔がみられる生活にすれば免疫力はあがります。

笑えばいいとなると、レクとか芸人とか呼んでとにかくわらかせばいいと思いがちですが実はそうではありません。

それでは人を単純にとらえがちです。

もちろんそれらは悪い事ではないのですが、なぜ普段の生活で笑わないのかと言う事を考えていきなれば対症療法的になってしまいますね。

その時だけ笑っても菌やウィルスがいるわけです。日常が生き生きとしていないのに、非日常だけ少し笑えてもあまり効果はねらえません。

もっと具体的にいうと

多くの障害をもったお年寄りはあたりまえの生活さえままならなくなっています。またできない事が増えていくなかで喪失感をもったり自分と上手く付き合えない状態がすべてではありませんが多いと思います。

1人1人が主体的に過ごせる生活を作る手伝いをすることで体も心も免疫も元気になるということです。

あたりまえの生活がない人は生き生きすることはできません。

まずは感染対策としてもあたりまえの生活が送れるように考えるという視点を持つのは大切だと思います。

また元気がなくなる生活をどうにかしていかないと免疫力は上がりません。


感染に関することは何もお年寄りに限った話ではありません。僕らだって予防でマスクだ手洗いだとか言われています。もちろんそれらは大切なことだと思いますが、毎日元気に過ごさないと当然感染しやすい体になりますね。僕ら自身も実は生き生きと過ごす事が大切です。

そうすれば職員がかかって仕事場にウィルスを持ちこむのも減るかもしれません。

免疫力ともっと向き合っていきませんか?

今年と来年は

手洗い、清潔、免疫力向上の3つでいきましょう。

メタボやからどないやねん

12-04,2010

メタボやからダメという健康ブームはやめてほしい。

メタボやからガン、脳卒中、糖尿病とか認知症まですべて太ってるからと説明する医者。
だから痩せて予防しましょう??

しばいたろかー
しばいたろかー
しばいたろかー

このネタ分かる人は相当マニアックです。
まぁわからん人はそのままで。

これ普通に考えておかしいと思いません?
これらの病気はやせてる人でも普通に多いですけど??
逆に太っている人でも沢山元気な人もいますけど??

なんでもかんでもメタボメタボってもうええかげんしてほしいです。

そもそもやせることが健康になるという事になってしまっています。

また痩せるために筋トレをやらそうとします。

健康になるために痩せようとしますが、それだけじゃ健康になりません。

むしろ健康とは自分の治癒力を高めることであり、痩せている事ではありません。

痩せているということも健康になった結果痩せていることはあっても、痩せているから健康とは限りません。

ストレスのある生活を送っている事は元凶なのかもしれないのに体にさらにストレス与えてどうしますん。

メタボっていうレッテルを押し付けられることで心にもストレスを与えてますし。

メタボメタボっていうとそういう事自体にも視点を向きにくくしています。

物事をよりややこしくしています。

もちろん過度の飲食は体に負担与えていることは事実ですが、もう少し幅広くとらえていくようにならないもんですかねー。

メタボってほんと今の医療を象徴している現象ですね。

健康や生活というとても重要で豊かな視点をすごく限定的にしてしまっている。

生活習慣病って意外に複雑な考え方ですよ。

僕らは生活の仕方によって健康になったり不健康になったりします。

だからほとんどの病気が生活習慣病だと言えます。

免疫だって生活に左右されます。

だから疾患を限定して生活習慣病とするのは意味ありません。

というかむしろやめて欲しいとおもいます。

健康や生活を無意識的にも限定的にとらえてしますからです。

だから健康や生活の可能性をなくしてしまっていることにもなります。

いつのまにか生活が元気にする事を忘れてしまってます。

無理して痩せて生活がボロボロでは健康になるわけありません。

それでも元気な人は痩せなくても元気ですわ。

ほんとどうにかなんないっすかねー。

安易な筋トレは筋肉を使えなくしている。

11-23,2010

比較的動ける人のリハビリをしました。

「自分は筋力がない。だから鍛えなければいけない。」

みたいな事をよく言う人が多いと思います。

筋力がないから動けないんだと思ってます。

でも実はそうではない場合が多いです。

筋力はあるのですが、ないと思っているばかりに上手く筋肉を使えていない場合がほとんどです。

必要以上に筋力がないと思ってます。

そもそも動作をするのに筋力はほとんどいりません。

体重は骨が支えるので、筋肉は軽く肘を曲げるように骨を動かすだけでいいんです。

筋肉で重さを支える必要はありません。

なので年をとろうがそれぐらいの筋力がない人はあまりいないわけです。

年をとれば確かに筋力は減ると思いますが、だからといって動けないとは限りません。





何故、お年寄りは筋力がないと思っているのでしょうか。

上手く使うことができないのでしょうか。

自分の身体的変化についていく事が難しい事は色んな要因があるとは思います。こうしなければいけないという習慣化している動作の問題なと。しかし1つの要因としてリハビリ職の筋トレの問題があると思います。

安易に筋トレすることで、患者さんや利用者さんは自分の筋力がないと思いこんでしまいます。

また療法士も筋力がないと相手をみてしまっています。

そうしながら自分の筋力がないので使えないと思いこんでしまっています。

自分の体はダメなやつだと「自分をいじめているのです」

そういう人に筋トレばかりしてはより動くことが難しくなります。

自分で自分の姿勢を調整することができないと思いこんでしまいます。

もちろん筋トレがダメなわけではありません。

動きにつなげるように筋トレをしていけばいいと思いますが、使い方によっては逆の影響もあります。

動きを広げるための筋の使い方をしっかり伝えていく必要があると思います。

また自分は動けるんだと思うだけで歩行が変わる人が沢山います。

ただ使えないと思うことをやめるだけでいいんです。

みていておもしろいです。






生活モデルやICFで誤解されがちなもの。

08-13,2010

 今回は少し専門的な話。リハビリの職種の人とかかわって思う話です。リハビリの人はかなりの割合で生活モデルやICFとらえ方がヘンな場合があります。僕も完全にわかっているわけではないのですが、かなり矛盾を感じる事が多いです。
 現場でも医学モデルに引きずられて生活モデルが結局、医学モデルの少し変わったものとしてとらえられがちです。だから多くの場合生活モデルについてしっかり考えることなしになんとなく医学モデルを中心にした生活援助が行われているように思います。
 講演を聴いても生活モデルではなく、医学モデルではないか。と思うことがたくさんあります。医学モデルが悪いと言っているわけではないです。どっちがいいか悪いかなんて事を言うつもりはありません。大事にはのはその人にあっているかどうかです。医学モデルが必要な時もあります。よく言われてますが、手術中であれば医学モデルのほうがありがたい場合だってあるかもしれません。急性期の場合だって医学モデルのほうがあう場合も少なくないと思います。僕らが病院に行く時だって医学モデルで問題点を見つけてもらって薬で治療してもらっています。
だからどちらがいいか、わるいかではないんです。ただ自分がどういうポジションでケアなり、リハビリなり医療なりを提供しているということが曖昧になっていて結局なにがしたいのかよくわからん状態になっているような状態になっている事が多いように感じてます。


医学モデルから生活モデルのアプローチへと最近よく言われています。同時に人のとらえ方もICIDFからICFへ変わっていってます。名前は変わってますし、図も以前のICIDHに付け足したようなものですが、中身は非常に大きく変わっているんです。人のとらえ方が違えばすべてが変わります。僕らのあり方さえも違ってきます。その辺もっちょつめて考えていきます。
 くわしくは長くなるので書けませんが、医学モデルは問題点抽出→そこにアプローチと言う流れで、生活モデルはありのまま状態を把握→目標を立てる→課題分析という流れになります。とらえ方が変わればまったくちがいます。
(生活モデルは生活の質を上げる事を目的にした援助、ICFは人を全体的にとらえる考え方です。ICFでその人となりをとらえて生活モデルの考え方で援助するというのが一般的だと思います。)


とりあえずあの図(ICFの)を思い浮かべながら読んでください。
参考サイト ICFってなんだろう PDF
これを参考にしてもらったら少しわかりやすくなるかもしれません。


よく誤解されがちなものを書いてみました。



1、ICIDHからICFになり図の中にある矢印が一方通行から相互方向に変わったのはかなり重要なことです。
矢印が相互方向なので互いに影響している事を表しています。図はすべてに対して相互方向なので1つの要素が変わればすべての要素が変わるという事です。つまり互いにすべてが関連している事を意味しています。関連付けができないと生活モデルの概念を使えていないことになります。そうでなければ単なる活動・参加・心身機能・環境・個人に分けて満足してしまっています。
 大切なのはそれらが関連している事です。たとえ関連づけをしても一方向の関連づけで終わっている場合も少なくありません。もしくはすごく範囲が狭い関連づけになってしまっている。相互に関連づけながら「流れ」をとらえる事が生活モデルの概念として大切な事です。この流れの中でどう各要素が影響しあっているかを考えます。個々の要素だけではとらえない事は大切です。


2,環境因子があるという事は状況によってまったく変わるということです。
環境因子があるという事は、人は状況によって変化するし、今と明日、もしくは一時間後では違うということです。つまり人を固定的にとらえないということになります。環境というとただ物的なものを環境だととらえたりしがちです。環境を幅広くとらえ、その環境と個体がいかに適応するかとう視点でとらえていく事が重要です。個人をとらえるばかりで環境はおまけになっている場合が多いと思います。評価テストを使ってもそこに観察者の影響、状況を含んでとらえることができていません。また意欲がないという事は環境と個人の相互作用の結果であって、個人に一方的に原因があるわけではありません。僕らのかかわりがその状態にさせた要因もあります。
もちろんその一部は個人の特性にあるが必ず環境にも要因があります。死にたいと言えばそういう状況にあるということです。ご飯たべたくないと言えばご飯が食べたくない状況や、そういう認識に環境側が影響を与えているといこと。人がどう思えるかも半分は環境に原因があるんだと思ってもらってもいいと思います。死にたいと・ご飯食べたくない・本人が言っているのだからはいそうですか。じゃありません。
 色んな要因が関連付けられるなかで生きていてもしかたがないという自己認識に変わっているわけです。そういった存在に周りがしています。無意識的なフィードバックを与えているという事です。
 つきつめていくとICFは「人」と「環境」という項目だけでもいいんじゃないかと思えるぐらい環境は大切だと思います。


3、個人因子があるという事は質をしっかり見るといことです。
 個人因子があるという事は単にその人に趣味・趣向うんぬんじゃなく、すべての事がその人の気分や気持ちや・思いによって変化するということです。やはり環境因子と一緒で人を固定化してとらえてはいけないという事でもあると思います。
 同じ事をしても状況や気分によってその内容が違います。何がよくて何がいけないのかなんてすぐに変わります。なので量だけでは見る事ができません。つまり質的な部分を把握しなければいけないということです。多くの場合量の把握(どれくらいできるか、もしくは何点なのか)でしか判断できていません。自立していたら満点ってちょっとおかしいと思います。自立していてもそれが無理やしさせられている場合もあるし、苦しみながら行っている場合もあります。一部介助でも気持ちよく行えている一部介助もあるし、無理やし動かされている一部介助だってあるわけです。食事でも1人で誰とも話すことなく行う食事は寂しいものです。もちろん時に1人で食べてもいいし、ずっと誰かと食べなければいけないわけではありません。しかし1人で食べることができるからといって満点とされてしまうのは、あまりにも単純に生活をとらえてしまっています。
そうはいっても皆しつを見なく量だけで判断してしまいがちです。同じ点数になってそれですべて判断されるか、もしくは少ししか考慮されていない場合が多いです。質は量の中でしか生まれませんが、質は量と同じぐらい、もしくはそれ以上に大切なものだと思います。多くのリハビリ職は質というものを考慮にいれてません。
 その注目されてない質も全体に関連しているので、当然健康や心身機能にも影響があるということです。それなのにあきらかに質的部分が軽視されていること多いです。例えばおいしく食べる事がただ栄養をとることだけになっていたり、風呂に気持ちよく入る事が単なる清潔保持、リハビリだって意味もわからずさせれている場合も沢山あります。(無理やりしたらそれはたんなるいじめです。)ただ栄養をとって清潔を保ち動く、そんな人間観では元気にならないように思います。人は食事も入浴もそこに楽しみや笑顔があってこそ元気になるのだと思います。


4、僕らはあくまでも環境です。自分の在り方が相手に影響を与えてます。プラスやマイナスをこちらで決めないでください。
僕らは人を援助する上で無意識的に自分の価値観を人に押し付けてしまっています。自分の質は自分の中にしかありません。当然相手は相手の中にしか質を見いだせません。よくありがちな事ですが、これが援助する側がこれが正しいと相手に押し付けてしまう場合があります。これもリハビリ職は多いです。特に自分はよくできると思っている人ほど多い。
よくプラス面をみるのが生活モデルだといわれますが、実はそうではありません。いいも悪いも判断することなくただありのままとらえるということだと思います。正しい事・悪い事なんてもものは相手が決めることで自分が決めることではありません。+や-面というのはこちらの都合で決めていませんか?問題点をあげる事はつまり勝手に援助者が自分で決めているということで生活モデルの支援にはあてはまりません。いろんな状況がありますが、それをよいか悪いかを判断するのは本人です。こちらで勝手にプラスやらマイナスやら決める行為は相手の生活や本人そのものを否定する行為です。そんなかかわりをしている事自体が相手の主体性を奪う行為を無意識的にも援助がしているのです。大事なのは相手をありのままとらえ、そして今後どういう生活ができるかという目標を考えていくことが大切です。そしてその人の生活を一緒に作り上げていくのです。問題点なんてものはありません。それは医学モデルで行えばいいことです。
 その人を変える事はできません。生活モデルにおいてその人にとって僕らは環境ということになります。環境が変化する事によってその相互作用により、本人が変化するんです。つまり援助する僕らが変化することです。その変化により相手が気づき自ら変化していくんです。人を変えようとする時点でICFや生活モデルの概念にはずれています。
つまり自分の在り方や自分の価値観が相手に影響を与えています。相手がどうのこうのというより、まず自分の価値観なり、あり方なりを見直おす必要があるんじゃないかと思ってます。いつのまにか自分の勝手な価値観を押し付けている場合がおおすぎです。


4、その時、その時のその人をとらえる。
ICFや生活モデルは人は変わるもの、分からないものという前提があります。相互作用の中で各要素が複雑に関連しています。そして時間や状況によっても変化していくもんです。人は固定的ではないという前提にあり完全にはわからない。ということです。これをすればいいのではありません。人はすごく複雑なものです。わかったという思いこみがあると相手をもう見ることはしません。医学モデルは人体をロボット的にとらえ修理していいくイメージであるますが、生活モデルは人を複雑な1つのシステムの中(それを簡単にとらえるためにICFがある)でみているので絶えず相手の変化をとらえこちらがらの対応も柔軟に変えていくことが大切です。決まり決まったアプローチができずクリエイティブに考えていく必要があります。
 人それぞれの人間臭さ、生々しさ、汚さ、思い、多面的、すべてが健康に機能に影響する事を理解していません。ただICIDHから環境と個人の要素を足せばいいのではありません。医学モデルから生活モデルへ変えるという事は評価の仕方、アプローチの方法、普段のコミュニケーションなどすべて変えていかなければなりません




よく生活モデルは医学モデルに比べて機能を深くみないとか言われることもありますが、それは違います。生活モデルやICFは広く浅くじゃなく、人を全体的にとらえ広く繊細にとらえていくための考え方です。上手く使えばかなり使える道具だと思います。
 障害をもっている人だけでなく、僕ら自身にも使える考え方でもあります。障害だって人それぞれ違うのにその人たちだけに通じるものはないように思います。あってもかなり限定的な使い方をするしかありません。もっと人と全体(もしくは生物全体)に使える可能性が高い考え方が本物だと思います。
自立支援・ICF・在宅復帰・リハビリ・地域など聞こえのよい言葉だけに振り回されたらいけません。大事なのはその人が自分自身の生活や人生をどう感じるかという質であって、その人が主役だという事です。
そして僕らは環境でしかありません。環境しか変われません。環境が変化しその相互作用のなかで個人と環境の環境適応を図ってくか。環境適応が上手くいくことで個体が生き生き自らしていきます。これが生活モデルを使って援助するキモのところです
これを理解して初めて実用的なICFや生活モデルが使えると思います。


あんまりえらそうなことは言えませんが僕はこう思うわけです。


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