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まとめ

02-24,2016


NAVERまとめ

【楽に生きる編】
http://matome.naver.jp/odai/2133536474330751001
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変化

05-22,2014

自分が現状のままでいいなら、現状のままでいい。

何かを得ようとすると、自分が変わる必要がある。

先に得るのではなく、先に自分がなる(be)必要がある。



多くの人は変われない。変わらないのに得ようとする。

だからいつまでたっても手に入ることはない。



そして、上手く変われないことを、

違う自分だと思い、また無理していると考え

変化すること、そのものを否定する。




どんなに変化しても、自分はそこにいる。

それがわかっていれば、色んな自分でも自分だ。

ありのままでいいというのは、ある種のあきらめに近いように思う。

もちろん現状でよければ、そのままでいい。



ありのままでも、それより背伸びしたちょっとかっこいい自分も自分なんだ。

ほしいものがあるなら、欲があるなら、自分の可能性を見つめたいなら

変化しよう。

そこには、まだ見つかっていない新しい自分がきっとある。

得ることとは、先に変わることなのだから。

変わることが、自分のしたい事をすることなのだから。





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BLOG本 「ジブンをイジメない生き方」

03-07,2014


byBoudewijn Berend


この中の記事を編集したらこのページがトップにきます。
ただいま編集中です。



もっと楽に生きれたらどんなに楽だろうと思った事はないですか?


私たちはがんばればどうにかなる。努力する事がよい事だ、効果的だと言われてきました。「もっとがんばらないと」「もっと努力しないと」と口癖のように言ってます。私たち自身もその考え方を何も疑う事もなくあたりまえのように受け入れていたと思います。そして他人にも「もっと努力するべきだ」とそれを押し付けてきました。しかし、実は人間がんばりすぎると身体が固くなってしまい結果を出そうとするのにより努力が必要になってしまいます。そしてより身体を固くして行動する。すごく悪循環になってしまうのです。ヒトの体や心は生理学的にみても、神経学的にみてもじつは楽にすることで、よりよい結果がでるという事がわかっています。無理にがんばって続けるというのはとても不効率なんです。


私たちは「あたりまえ」のことを疑うことなく信じてきました。しかし実際そうなのでしょうか。このBLOG本では今まで常識だとされてきた考え方をもう一度検証しよりよく生きるためのアイデアが書かれています。自分で体験した事や学習した事をまとめているので書店ではほとんど見られない内容になっています。これを読んで何か少しでも違いがでれば幸いです。


タイトル-ジブンをイジメない生き方


0-はじめに
0 はじめに


1-僕らは知らないうちに思いこみに振り回されている
1.0 他人や自分にも思いこみを押しつけている
1.1 案外自分の事を分かってないジブン


2-あなたは知らないうちに影響しあっていると気づいていましたか
2.0 普段意識しないからこそ無意識のメッセージ
2.1 受け止め方でメッセージは変わる
2.2 挨拶を例に無意識のメッセージを考える
2.3 人を自然にほめる考え方
2.4 あなたの存在や行為が無意識のメッセージ
2.5 好かれたいという行動は逆効果!?
2.6 ほんとにそれ自分で決めてますか


3-人は思いこみで自分を認識している
3.0 あなたは思いこみを自分だと思っている
3.1 自分の性格は学習して作られるもの
3.2 セルフイメージという自分の説明書
3.3 自分らしさとは何か
3.4 ポジティブは自己否定している
3.5 お金持ちになったら幸せになれるのか


4-過去だって思いこみで作られている
4.0 過去という思いこみ     
4.1 1人で思いこむと過去、みんなで思いこむと歴史
4.2 過去が自分の思いこみなら変えることができる
4.3 しがらみを取り払え
4.4 許す事は許せないことを好きになることではない


5-自分をいじめる事なく楽に新しい自分を発見する
5.0 まずは思いこみ気づきやめてみる
5.1 違いを感じる小さいけれど大切な一歩
5.2 毎日の生活が自分を作る 
5.3 自分はいつも自分を見ている
5.4 トイレや風呂、ご飯も大切な生活の一部
5.5 ぶらさがって支えてもらうよりも足をつけて支え合うほうが楽
 

6-まず自分の一歩から始めよう。それは自分が思っているよりも大きな一歩になる            
6.0 体を使って「新しい自分を発見できる」ということを学ぶ
6.1 やってみないと本当の事なんてわからない
6.2 あなたの人生を変えるかもしれない質問以下編集未 大幅付け足し予定
6.3 違いがよりわかるようになる質問
6.4 人は常に環境適応している


7-あとがき
7.0 これがきっかけになってもらえれば嬉しい限りです。


※まだまだ途中です。追加・編集を行っていきます。

※基本的に記事が追加されてもこのページがトップに来ると思います。更新されてないわけではないので注意してくださいね。
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まとめ

03-07,2014

時間がない人はこのブログのまとめをごらんください

NAVERまとめ

【楽に生きる編】
http://matome.naver.jp/odai/2133536474330751001

【医療・福祉ケア編】
http://matome.naver.jp/odai/2133698528969459501




時間がある人はこちらをどうぞ 

【ジブンをイジメない生き方】

※まだ未編集の部分もありますが、このブログの散らばっている記事をもとに体系化し、新たに記事として書いたものです。
http://kotetu11.blog117.fc2.com/blog-entry-210.html




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ハンドリング

09-07,2013





ケアやリハビリのハンドリングとは
上手く相手を「動かすこと」ではありません。

質の高いハンドリングとは
本人自身が「動くことを助ける」こと、
または「動きを学習することを手伝う」ことです。


ハンドリングというと「物体を上手く動かす」という認識になりがちですが、私達の対象は神経系をもっている人です。
単純な構造の物体と同じように動かすことはできません。
できたとしても神経系に悪影響を及ぼします。


ハンドリングが上手いということは
コロコロと相手を転がすことが上手くなることではなく、介助される人が自分で動きをコントロールし、動く事を助けるものです。接触や介助者の動きを通して相手の神経系の学習を助けます。ですから一緒に試行錯誤することはハンドリングの大切な部分です。


必ずしも一度でひょいと動かすことがハンドリングが上手いということではありません。
多少戸惑っても、試行錯誤することで、介助される本人が学ぶことができたならそれは素晴らしいハンドリングです。


上手く転がしても、何も学んでなかったら
ハンドリングとしてはあまり質のよいものとは言えません。
もちろん一度のハンドリングで学ぶこともあります。
学びの過程でコロコロ転がることももちろんあります。


大切なのは「上手く動かしたか」ではなく、「何を学んだか」です。


質のよいハンドリングを行うためには時間がかかる時もあります。ある意味、介助というのは限られた時間の中でのセッションのようなものです。そこに接触と動きによるコミュニケーションや、言葉によるコミュニケーションがあります。


上手く人を動かすことに慣れてきた時によく陥りがちですが、一方的にコロコロ転がして、一見上手くいったように見えることが質のよいハンドリングだと勘違いしがちです。それでは上手く「運搬」することができただけです。質の高いものではありません。


実際の現場では時間の制約がある以上、常に質のよいハンドリングをすることは難しいかもしれません。


大切なのは自分が「今何をしているか」ということを理解することです。

今自分は「運搬」をしているのか「動きの教育」をしているのか。


自分がしていることがわかると
限られた時間の中では「運搬」になるかもしれませんが、時間があるときは「動きの教育」をすることを援助者が選択できます。

ハンドリングのスキルを高めて
よりよい動きの支援をしていきましょう。

谷口奨




※写真はキネステティクス®ベーシックコースの様子

※この記事は私が「動きに学習とリハビリテーション研究会」のFacebookに書いたものです。
動きの学習とリハビリテーション研究会のFacebookはこちら

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なぜ人を触る時、自分の動きが大切なのか

10-24,2012

人への接触や触り方を勉強しようとするとき、
ほとんどの人は相手の動きや接触面の手にだけ注意が向きがちです。

しかしそれではあまりうまくいきません。


触る時というのは
必ず何らかの姿勢をとり、自分を組織立ててから触っています。

自分の体全体の使い方がまずいと
おのずとタッチの質もまずくなります。


つまり自分の動きをうまく整えることができるほど
タッチやハンドリングがうまくできます。
しかし多くの人はうまく自分を整えるところまで触るとき注意がいきません。


また人の動きを手伝う時
やはり多くの人が手で動かすと誤解しています。
質のよいタッチやハンドリングは手だけで動かしているわけではないのです。


むしろ
手の力をほとんど使いません。


手には感覚器が沢山ついています。
手は動かすためよりも
相手の動きを感じるセンサーです。


しかし手のみで動かそうとすればするほど
手に緊張が高まり本来の
センサーとしての機能がなくなってしまいます。


ではどうすればいいのか。

それは


自分の体全体をうまく使って
ハンドリングするのです。


やはり全身の使い方が大切になります。
手で動かすのではなく、


自分の全身をうまくコントロールできた時
より質のよいハンドリングができるでしょう。

ということは、まず
相手の動きを見る前に、自分の動きにしっかり注意を向ける必要があるのです。


キネステティクスベーシックコースは
自分の動きをしっかり理解するコースでもあります。

自分の動きを勉強する事を抜いてしまえば、
介助を含めハンドリングが質の良い役立つもにならないからです。

介助方法やテクニックや理論を机上で学ぶだけでは、患者さんや利用者さんをほんとの意味で
人として動きを助けることはできません。


リハビリテーションのアプローチも同様です。
患者さんに触る時、手で触れるにしても、必ずなんらかの体位をとって自分の動きを使うのですから。
よい理論を生かすためにも質の高い接触が必要です。

自分の動きが知らず知らずのうちに患者さんや利用者さんに影響与えています。
それは考えているよりも大きな影響を与えています。


人はロボットではありませんので、やり方だけでなく、
自分の体を通してもっと本質的なものを学んでいく必要があります。

まず自分の動きの理解からは始めましょう。
そこから丁寧に学習を積み上げていくことをおすすめします。

そして楽しく学んでいきましょう。


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人の動きから考える認知症2 記憶について

09-29,2012

人の動きから考える認知症シリーズ2です。
前回はこちら
人の動きから考える認知症 3分類とアプローチ
今回も一つの意見として気軽に見てください。


1.記憶力とは何か

記憶力が低下するというときはどういった状態でしょうか?
人は思い出す時何を思い出しているのでしょう?

人の記憶はすべて関連することによって記憶しています。単純に昨日の食事を思い出そうとした時も、意識しないかもしれませんが、どういった状況で、誰と食べたか、何時頃食べたかなどという情報も同時に思い出してます。単語だけを思い出しているわけではありません。逆に何を食べたか思い出せない場合、状況や時間、どのような場所で食べたかを思い出してみると、何を食べたかも思い出す事がより簡単になります。

それでも思い出せないのなら、自分は何をそこで何を話したか、食事をする前後は何をしていたか、においはどうか、その時の感情はどのようなものだったか、など他にも関連づけられるような所から思い出してみてください。その時に関わる様々なことを関連付けすることより思い出すことができるでしょう。逆に忘れたくない場合、何かに関連付けをすることはとても有効な方法です。

人は何も関連づけができない時、記憶することがとても困難になります。
パスタ、オムレツ、ハンバーガー、うどん、ステーキ
これらを簡単に覚えることはできるでしょうか?

人間の脳は優秀ですから、パスタと聞いただけで、お皿に載ったパスタを思い出し、人によりますが、そのとき食べた感情なども意識することなく、ほぼ自動的に思い出します。おいしそうな匂いや食感や塩見や旨味。お腹が減ってきました(笑
多くの人は無意識的にも映像化し、質感なども関連づけて記憶しているのです。

ではこれはどうでしょう?
ほでぎょう、ぎょうほ、べとうっき、がおうぐわ、ぎょうえいほ(適当に入力しました)

同じぐらいの文字数ですが、容易に覚えられるものではありません。覚えられたとしても先ほどよりも難しいと思います。これは関連付けができないからです。関連付けすることができないと、記憶力は極端に低下します。つまり記憶力の大きな部分は関連付けする能力に大きく影響しています。記憶力の低下とは「関連付けする能力の低下」とも言えます。実は関連付けしない単純な記憶力は人間はあまり持っていません。単純な数字の羅列を覚えるだけでも何にも関連づけしない場合とても覚えるのに苦労します。数字でさえ、数字という枠組みで関連づけされています。

один два три четыре пять шесть семь восемь девять
これはロシア語の1〜9までの読み方を表しています。

دٌ اِثْنَانِ ثَلَاثَةٌ اَرْبَعَةٌ خَمْسَةٌ سِتَّةٌ سَبْعَةٌ ثَمَانِيَةٌ تِسْعَةٌ
これはアラビア文字の1〜9までの読み方を書いてものです。

私達の使いなれた数字の読み方を捨ててこれらの文字だけを使ってあなたは何桁の数字を覚えることができるでしょう。多くの人はわずかだと思います。少なくとも私はわずかです。例えばこの羅列четыре пять اَرْبَعَةٌ ثَمَانِيَةٌ これをすぐに覚えられるでしょうか?日本語にすると四五二六です。(たぶん汗)そうするとすでに日本語の数字を関連付けを利用して簡単に覚えられます。本来関連付けができないと人は記憶することがかなり難しいのです。普段記憶力を使っている私達にとって意外なことですが、やはり人の記憶は本来少ししか記憶することはできません。関連づけすることで、この能力を何十倍も、何百倍まで伸ばしているのです。テストでも学問でもただ単純に単語や文字を暗記するのは非常に不効率です。前後の流れや全体を体系化して覚えることで人はより覚えることができるのです。物事をよく知っている人はこの体系化する能力、言い換えると関連づけする能力を使っています。もちろん何かを学び始めた最初ほど関連づけられるものが少ないですので最初はゆっくりであまり単純に暗記するのと違いを感じられなかもしれません。しかし少しづつ体系化していくと、関連付けがまた違う関連とつながり様々なことを効率よく覚えることができます。知識が豊かな人ほどのこの関連づけする能力を使っています。まさに知識を2乗にして増やすことができます。


2.認知症と記憶すること

ここで認知症を考えましょう。なぜ認知症の人は記憶力が低下するのでしょう?
もともと人は記憶する能力が少ないとしたら、やはり物事を関連づけする能力が低下していることが大きいです。ではなぜ関連づけすることができないのでしょうか?

多くの認知症の人は老化に伴い、自分自身の認識を上手く書き換えることができません。自分のことをいつまでも若いと思っていたり(動きの混乱化)、自分のことの認識自体が鈍くなっていたり(動きの習慣化)、自分自身を否定したりしています(動きの縮小化)。ついこの前書いた動きからみた認知症の3分類に対応するものです。

これらが自分自身の認識に大きく影響していきます。多くの自分自身の認識について現実とずれが生じているのです。自分自身の認識がずれたまま周囲、つまり環境と関わると、当然そこにずれがわずかにでも生じます。最初は簡単なことです。自分では大きく足を上げているつもりでも、実際は自分が思ったより上がっていなかったり(動きの混乱化)、同じことをただ繰り返しているだけで周囲の変化についていけなかったり(動きの習慣化)、動く事自体が少なくなって環境と関わる機会がへったり(動きの縮小化)するような状態です。やはりこれらも実は認知症の動きの3分類でみられる典型的なパターンです。


3.自分自身の認識のずれが関連づけをしにくくさせる

共通していえることはやはり自分の認識がずれていることで、環境と上手くつき合うことができません。そうなると物事を上手く関連づけすることができないのです。空間で考えてみましょう。自分の居場所でさえ、周囲と関連づけることで認識しています。現在地がわかることで、はじめて自分の右手にトイレがあるとか、その奥に風呂場があるとかという位置関係も理解できるのです。自分の位置関係が曖昧なままトイレの位置を覚えてもあまり意味がありません。右手にあると思って覚えても、180度回ればトイレは自分の左手にありますから。やはり自分の位置関係がはっきりすること、そして空間と関連づけができることで、空間の中で自由に動けるようになるのです。時間で考えても同じです。自分がある場所で朝起きた光が顔にあたるから朝と理解し、夜は暗くなるから夜と認識します。時間も空間も自分自身と環境を関連づけすることで認識します。仮に真っ暗な部屋で何十時間も時計もなく過ごすといったい今の時間はいつなのか、自分はどちらの方角を向いているのか、多くの人は混乱を起こすでしょう。

自分の認識のずれが、環境と上手くつき合うことができず、そしてそこに起こった物事を関連することも難しくなるのです。例えその度合いが最初はわずかにずれていたしても、その影響はあります。空間との関連性が少しでもずれていれば、無意識的にも予想していた位置と少しずれるわけですから、関連づけもその分も少し曖昧になります。日常的にはあまり困ることなく、最初は無意識的でほんの些細な変化かもしれませんが、最近忘れっぽくなったなと思うのはこのような段階であることが多いと考えられます。

このようなずれが大きくなれば、より物事を関連することはできなくなります。昨日は何を食べましたか?と人に聞かれても、どこで食べただろうか?いつ食べただろうか?などの関連付けができなくなると、より何を食べたか忘れる割合は大きくなるでしょう。例え食べたものを覚えていたとしても、どこでいつ食べたか思い出すことができなければ、食べたという実感も少なくなります。状況の関連付けが少なくなればなるほどやはり記憶は曖昧になるのです。例えば料理をしていても、その活動には関連性があるのです。料理がスムーズに作られるのはその活動との前後関係がはっきり関連付けができているからです。なぜ作ろうととしたのか?だれに作ろうとしたのか?なんのために野菜を切っているのか?どこで作っているのか?など。これらに関連付けができなくなったとき、私は何をしているのだろうか?と思うようになります。

自分と時間の前後の関係性が曖昧になれば、自分が何歳でどのようは人なのかが曖昧になります。自分自身はこういう人だと言えるのは、過去の状況と関連づけているから述べることができるのです。自分と空間の位置との関連性が曖昧になれば、自分どこに居て、どこに向かっているかが曖昧になります。やはり自分がどのような生活をしていたのか曖昧になります。これらは自分のアイデンティティにも大きく影響するものです。自分が存在しているという認識でさえ曖昧になり、不安感を抱く人も少なくありません。

このような過程で関連付けが行うことができなくなれば、それは悪循環になります。人はまた自分の認識を理解するのに環境とかかわることでその認識を助けています。ですから、ズレがはじまれば、それはまた大きなズレになっていくことでしょう。実際動きてみて、予想と違うこと(例えば今まで家にいたのに、急に道に立っている、夜だと思っていたのに、昼だと言われるなど)が起きればより自分自身の認識も悪影響を及ぼします。大きな事故や脳梗塞でもないかぎり、明日から急にすべて忘れたということはほどんどありません。多くは徐々に悪循環のループにはまっていくのです。そしてそれに伴い脳の構造自体も変化していくのです。器質的な変化も見られるでしょう。もちろん体質や遺伝的な特性によって認知症になりやすい、なりにくいはあると思います。ここではそれ以外の要因と可能性を探しています。認知症を動きを中心に置き換えることで私達がより様々な側面で理解し、できることが増えることが目的です。


4.動きから自分との関連性を再構築する

私達は無意識的に昨日何を食べたかを思い出す時、自然とその状況を思い出して夕食を思い出そうとします。状況を思い出さないようにすると、何を食べたかも思い出しにくくなります。昨日の晩何を食べたかでさえ結局関連づけができない限り、高性能な脳をもってしても簡単に思い出せないこともあるでしょう。関連付けができるということは高性能な脳をよりよく使う方法でもあります。ですから心に残るとても素敵な出来事や信じられないぐらい最低な出来事があれば、何年経っても覚えているものです。例え認知症の初期状で物事との関連付けに曖昧さがあっても、すばらしい体験は心や記憶に残る人の少なくありません。それはやはり関連づけが曖昧さの中だとしてもその時はっきり働いているからです。だからといって常に大きな出来事ばかりあると周囲も本人も疲れ果ててしまいます。日常的には関連付けの曖昧さに対して何らかのかかわりが必要です。

体の認識のズレが記憶力の低下の一つの要因であるならば、やはり動きにアプローチする方法が有効だと言えます。もう一度自分自身とのズレを見直していく必要があります。言い換えると自分と自分の動きの関連性を見直すところかです。例えば動きの混乱化タイプであれば、落ち着いた状況でもう一度ゆっくりと落ちついて物事と関わる環境を提供することで、動きの習慣化タイプであれば、いつもと違う体験を提供することで、動きの縮小化タイプであれば、少しずつ無理なく動きや行動を拡大することで自分との関連づけを再構築していくのです。(詳しくは前回の人の動きから考える認知症 3つの分類とアプローチを参照にしてください)
これらはすべてなんからの体験を提供することでもあります。私達は生活を通じて、また関わりを通じて「体験」を提供することができます。自分を再構築できるような体験を提供していくのです。(こちらも参考にしてみて下さい 体験を提供すること)

実際にある程度は動きの支援により、自分自身の認識が回復し、関連づけができるようになると、認知機能が高まる事例も少なくありません。動きの支援といってもピンとこないかもしれませんが、動きの支援をするということは「新しい動きをする体験を提供」しているのです。先日書いた3つの認知症の分類とアプローチを参考にしながら、キネステティクスなどを通じて人の動きを学んでもらえればと思います。人の動きは心や体、環境すべてが統合されたものですから、学ぶ価値はあります。統合とは関連付けなのです。脳の本質的な役割の一つは自分や環境に関連づけをすることです。動きの理解はその根本的な理解につながります。自分のためにも、ケアをしている人のためにも人の動きを学んでみることをおすすめします。最初はゆっくりですが、少しづつより色々な物事が関連づけて考えられるようになるでしょう。


リンク元
動きの学習とリハビリテーション研究会 Face bookページ
https://www.facebook.com/ugokinogakusyu
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そういえば

09-25,2012

そういえば...

動きの学習とリハビリテーション研究会をこのブログで紹介してませんでした。
実はそのような研究会を立ち上げていたのです。

これは新しい人の動きに関する学習をリハビリテーションなどに生かす研究会です。
リハビリテーションや動きに学習に興味がある人なら職種は問いません。
どなたでも大歓迎です。

今はキネステティクスを中心に扱ってますが、
今後は徐々にフェルデンクライスメソッドやアレクサンダーテクニークなども扱っていく予定です。
もちろん免許を取得してです。


動きの学習とリハビリテーション研究会

Face book ページ
https://www.facebook.com/ugokinogakusyu

※よろしければ「いいね」を押していただけるとありがたく思います。


ホームページ
http://ugokinogakusyu.jimdo.com/

ちなみにLCMACもちゃんとやってますよ〜。
そちらもよろしくお願いします。

ホームページ
http://www.lc-mac.com/

人の動きから考える認知症 3つの分類とアプローチ 谷口式2

09-24,2012

以前にも認知症の分類を書きましたが、より動きに特化して認知症を分類してみました。なぜ動きと言われるかもしれませんが、生活とは動きの集まりです。どんな動きの傾向があるかによって生活が作られるわけです。ですから動きにアプローチすることは生活そのものをアプローチすることと同じです。動きは精神も、身体も、環境も、感情も分けることはできません。活動、行動、行為、ふるまい、態度、色々な言い方はありますが、これらは動きを別の言い方で表現したものです。

まず動きの認知症分類をしてみましょう。

1.動きの混乱化タイプ

以前であれば若さやありあまる筋力を使ってできることでも、老いてからも同じ方法で行うことによって無理が生じます。社会の価値観も影響していると思いますが、いつまでも自分は若いと思い込みたいため、何にでも無理して若い頃の方法で行おうとします。しかし現実的に体は違うものですから、できることとできない事を把握できていないために、無理やり動く事になります。そうすると頭の中の若い自分と、現実の筋力の衰えてる自分とのズレが大きくなっていきます。地図を見る時、まず自分の現在地を確認して状況を理解するように、この世界は自分を基準に認識しています。ですから自分の認識がズレると徐々に自分や周りの解釈が歪んでいきます。こういった人は繊細にゆっくり動く事が苦手な場合が多いです。がさつに大きく動く方法しか知りません。一番良い頃に戻るというのはこのタイプの傾向です。人はこうでなくてはいけないという思い込みが強い人は、自分の老いを受け入れることができず、無理に若者のような優秀で活発な動きをします。一つの価値観にしばられて自分で自分を必要以上にいじめているのです。柔軟に動けないということは、思い込みに囚われているということでもあるのです。


2.動きの習慣化タイプ

毎日のほどんどを習慣的に過ごし、ほぼ自動的に時間が過ぎていく状態です。物事に対して習慣的な動きや行動を何も考えなくても行います。それは一見良い事のように思えますが、度を超えている場合です。ある種習慣化したパターンは多くの注意力を必要としないので、簡単に行うことができます。それは人間として必要な能力ですが、逆に習慣とは違うことができる能力も大切です。これが無いと同じことを何も考えず行うロボットのようになります。つまり過度に習慣化した生活のパターンが考える力を徐々に奪っていくのです。ひどくなるとほんとにロボットのように同じ動きを繰りかえします。動き方も固定的で慣れた反復的な動きや同じような行動を繰り返します。俗にいう常同行為です。人は毎日そういう違いのある生活を送れるわけではありませんが、大切なのは人は同じように過ごす毎日の中に小さな違いを感じ、喜んだり、悲しんだりします。常に同じように毎日が過ぎているわけではないのです。しかしこのタイプの生活はただ漠然と毎日が過ぎていきます。自動的に動き、自動的にご飯を食べ、自動的に寝る。このような反応です。色々とたとえもあり、個人によって違いますが、ご飯も食べるという行為さえも楽しむより、口に物を入れる行為に近い状態だと言えます。


3.動きの縮小化タイプ

最初は外出しないから始まり、部屋にこもりだし、ベッドにこもります。最終的には自分自身の中にこもってしまいます。そして手足を動かすことでさえしなくなります。これらの傾向としてあきらかに動きが減少しています。多くの場合なんらかの動くことに対する障害やストレスから始まっていることが多いです。文字通り動けないという障害、それだけなく、動くのがおっくうになる。動く事が単純にしんどい。何か動きたくない、行きたくない理由がある、出て行く理由がないなど色々な理由があります。これらに共通するのは動く事が少なくなり、それが徐々に目立つようになっていることです。最初は行動が、最終的には小さな動きさえも少なくなる。それはいきなり始まるものではなく徐々に悪循環として起こります。一つのきっかけがさらにより動く事がない状態へと導きやすいのです。


このように考えると
実は動きを変えることによって認知症にアプローチができます。
それを各タイプ別に見ていきます。

1.動きの混乱化タイプ

このタイプはゆっくりと動いたり、行動する機会を提供していくことで自分が何をしているのかを実感してもらいましょう。つまり生活の中に落ち着いて過ごす時間を提供します。落ち着いた動きになる環境を用意するとも言えます。リラックスできる雰囲気、そのままのあなたでいいですよというありのままを認めてくれる関係なども含まれます。本人が混乱しているのは、多くの場合、現実には老いた自分を若いまだまだやれる自分にこだわるから混乱します。あきらめろというわけではありません。老いた状態でもよりよくできる方法や動き方はたくさんあります。筋力がなくても、楽に落ち着いて、洗練して動くことは可能です。老いと戦い若者のような動きをするのではなく、成熟した落ち着いたゆっくりとした動きを獲得していくことで自分の可能性を違う方向で見つけることができます。そうすることで今の自分をよい意味で認め、「昔」を生きるのではなく、「今」を生きるころができるでしょう。


2.動きの習慣化タイプ

このタイプには新しい体験をする機会を提供し、新しい自発的な反応を引き出すことです。そういった機会を生活の中にもうける必要があります。ただ無理に何かをさせるのではなく、よく相手を観察しながら、反応を引き出し「違い」を積み重ねていきましょう。このように関わったらこんな反応がでた、じゃあ今度はこうしてみようという積み重ねです。1日の生活を観察し習慣化されたパターンに小さな変化がでればよい兆候です。ただそこで安心するのではなく、またそのかかわった方法がが習慣化されたパターンになってしまえば効果が薄くなります。だからこそ積み重ねる必要があります。つまり一度相手に変化があったからといって、その手法を繰り返すのではなく、常に援助者側も習慣化しないようにその変化を敏感にとらえ関わり方をかえるように注意しなければいけません。過去に成功したアプローチでもそれを習慣のように繰り返すと、新しい習慣を作るだけです。ですからそのアプローチを繰り返しても本人の習慣化を強めるだけなのです。プログラムなどを立てる必要もありません。常に柔軟に反応をみながらやり方を変え反応を引き出してください。例えプログラムを立て成功したとしても、関わり方を反応に応じて少ずつ変える必要があります。ここで大切なポイントは大きく変わる必要はありません。毎日の生活が大きくかわれば逆に習慣化のパターンが強い人はついていけません。そしてついていけないために、より今の習慣化のパターンにこだわります。ほんの小さい変化を積み重ねればかまいません。こちらからしたら小さな変化でも、本人にしたら充分大きな変化です。相手を変えようとしないこと。相手をかえるのではなく、自分が相手の小さい変化を発見できる能力や、援助者が習慣化していないかが大切です。


3.動きの縮小化タイプ

このタイプは無理なく、行動範囲を拡大していきましょう。行動や動きの拡大が好循環を生みます。ここも無理に引き出すのではなく、相手が自発的に楽に動けるようにかかわっていきましょう。そして少しずつ新しい場所を見たり、なじみの空間を動く事によって増やしていきます。楽に安心して動ける空間をとりもどすと同時に、楽に動ける動きを援助します。ここで重要なのは相手の反応を引き出すことであり、時間が要する場合が多いです。つまり援助者はすぐに結果を求めるのではなく、「待つ」という過程が必要なのこともあります。相手が止まっているときは、動き出すまでの必要な準備をしているのかもしれません。待つことができず、結果を求めてばかりいるといつのまにか、それは強要になり、より動きの縮小化をすすめていくことになるでしょう。また楽な動きを援助者が知っていることも大切です。楽に立ち上がるには、楽に起き上がるにはどうすればいいか?などそれらを知っているとよりよい提案ができるでしょう。


最後に

ここであげたのはすべて相手を変えるのではないということです。すべて援助者の行動や動きを変えることで、2次的に相手がかわります。もしそれで思ったような反応を得られない場合、相手をかえるのではなく、また援助者自身の行動や動きを変える必要があります。相手を無理に変えようとした場合失敗します。人は変えられるのではなく、自ら変わるものです。厳密に相手を変えることはできますが、多くの場合受け身にしたり、受動的にすることができるのみです。主体的にその人の人生を自らで動いてほしいと思う時、それを手伝うには援助者自身、つまり自分が変わることが大切なのです。

ということはまず、自分の動きや行動についてより知っていく必要があります。自分はどのような傾向があるか、どのような事を相手にしているのか。相手を助けようとして、相手の邪魔をしていることはよくあります。例えば相手のためだと思っても、動きや行動を強要した場合、多くの場合人はここで上げた3つのタイプの反応を示します。抵抗してもかなわず、強制されている自分を認めない(動きの混乱タイプ)、抵抗することをあきらめて、何も考えずそのまま強制されたことをする(動きの習慣化タイプ)、抵抗するのをあきらめて、自分の殻に閉じこもり反応が鈍くなる(動きの縮小化タイプ)

これらの分類は言ってみれば、3つの動きや行動の反応のパターンです。たかがか動きだと思うかもしれません。しかし動きの積み重ねが生活になり、人生になります。だからこそ動きを理解しアプローチすることはとても重要です。むしろ動きなくしてはアプローチでできないと思います。心と体はつながっています。そしてこれらと環境が合わさったものが動きなのです。動きを支援することは体を支援することはもちろん、同じぐらい心も支援するのです。もちろん完全によくなるものではないかもしれません、しかし動きを引き出すことはその人の可能性を引き出すことでもあります。また動きが良くなるということはよりよく生きることでもあります。その人の人生は動きの集まりだからです。だからこそ、認知症にかかわらず、動きを支援する意味があるのだと思います。私達は認知症をよくしたいと思うことと同様に、よりよくその人に生きてほしいという思いでかかわるのですから。

ここであげた分類も大切なのですが、動きを通じて自分は相手にどんな影響を与えているのかを見つめることがもっとも大切だともいます。自分を見つめながらこの分類を生かしてくれれば嬉しいです。それはきっと援助者自身の認知症の予防にもなり、またよりよく生きることにもつながるでしょう。
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人は微妙なバランスの中で生きている

07-16,2012

※付け足しました。2012年7月25日

人はバランスを保っていきている。
ある幅から、ある幅まで常に揺れながら生きているのだ。
実際に立っている時わずかに揺れているが、これは健康についての話。
(立っている時完全に止まれないということが、常に人は揺れているという証拠になるのだけど)

その揺れ幅を超えた時、体や心に大きなトラブルが生じる。

例えば度を超えた元気すぎることが常に続く場合
これも一見いいかもしれないが、常に元気でも度をこえると躁状態になり社会性が上手くいかない。
考えてみてほしい、空気が読めずずっとテンションが高い自分自身を。
また常に笑っているということは、情緒的な感情を捨てていることになる。
常に元気でいるということはある意味、ものすごく薄っぺらいものになる。

テンションが高すぎる状態というのはある種とても危ない。
体に常に大きな負担をかけるだろう。人によって様々だが常に血圧が高い状態だったり、呼吸が浅かったり、消化器系にトラブルがでやすかったり、脳も動いているようで深い思考などもできない。色々なことが考えられる。

逆に疲れがたまりすぎたときやストレスがたまったときは
何か不調が心や体に起こる。
たとえば皮膚に発疹ができたり、うつ状態になったりする。
こちらはわかりやすいと思う。


健康とはある種、この振り子みたいなものではないか。
生活というなの振り子だ。

小さい揺れなら、簡単にケアすれば戻ることはできるし、
大きく揺れても、時間をかけてケアすれば反対側に戻る。

しかし振り子が大きく一方に振り切っているのに、症状だけ薬や手術などをしても根本的な解決はしない。
それらはこれ以上ひどくならいために必要なことはあるが、それだけでは駄目だ。

振り子を戻す過程が必要なのだ。

もうそれ以上無理をするのではなく、振り子が戻るのを待たなければならない。
振り子を真ん中で止めればいいというかもしれないが、
生きていることは揺れていることなのだ。
振り子が止まる時は死んでいるときだ。

常に人は揺れている。
時に大きく揺れても戻ってこれればいい。
常にバランスをとればいい。
それが健康のコツだと思う。

一方に常に揺れすぎると、バランスが崩れて戻りにくくなる。
常に自分がどのようにゆれているのかを知り、自分の生活をコントロールする。
大きくも小さくても揺れていればいい。だめなのは片方に振り切りすぎている場合だ。
それは振り子は止まっている。つまり死んでいるのに近い状態になる。

疲れているなと思うとき、ゆっくり体をいたわってほしい。
逆になんとなく家で過ごす時間が多くなっているならどこかにでかけてみよう。

自分の振り子に注目してみよう。
そしてバランスを保ってみよう。
そうすれば、健康的に過ごせるかもしれない。

自分は健康だと思って、その健康が安定しているものだと思うかもしれない。
でもそれは錯覚だ。
常に微妙なバランス上でなりたっているのだ。

皮膚だって起きている時に痛め、寝ている時に回復する。
そのバランスが崩れると皮膚に発疹ができたりする。

がん細胞でさえ、毎日僕らの体にできているが、免疫系が
きっちり処理をするからがんにならないのだ。
そのバランスが崩れると、あまり想像したくないことになる。
ですから手術でがんを完全に取り除いても治ったことにならない。
振り子のバランスをもとに戻す過程が必要だ。

テレビでも歌舞伎役者ががんになっていたが、アナウンサーがその人に対して
「手術して早く前のように活動されるといいですね」
というよくコメントで話しているし、この人も悪気があるわけでない。

ただ前のような生活が振り子のバランスを崩しているのだから、
前と同じような生活をしないようにすることをおすすめしたい。
自分をいたわりながら活動できる生活に変えていくことが必要だと思う。

体はすべてにおいて気づいてないうちにバランスをとっている。
自分自身で邪魔しないようにして、みんな健康的に過ごしてください。

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動きと空間 自然に動くということ

06-09,2012

今回は勝手な思いつきで、また内容も抽象的かもしれんので気軽に見てください。
あくまで思いつきなので参考程度に見てください。ちょっと言葉にする練習をしてみたくなりました。
今回は専門的かつ適当に書いているのでわかりにくかったらスルーしてください。


私たちは動く時、常に空間の中で動く。
もっと突っ込んでいうと、自分の動ける空間を知っているから動く。
それも無意識的にその空間を使うことができる。

つまり空間を知覚すれば、無意識的に動きは自然に発生する。
この空間というのは体の中の空間もあり、体の外側の空間もだ。
(たぶんのこの内側、外側の空間の理解はキネステやっていればわかると思います)

自分を認識している時、常にどのような空間の中に自分は存在してるのかということを把握している。
もし自分の周囲がどのような空間かわからない場合あわてて周囲を動き探索するだろう。

そう、自分の動きと周囲の空間(また自分の中の空間も含めて)は常に密接に関係している。
無意識的な動きをしている時でも、また無意識的にそこに動ける空間があるから動けるということを脳は理解しているように思える。

無理に動こうとしても、自分が動ける空間に気づかなければ動くことはできない。
つまり動きをより引き出すためには、空間を知覚することが大切だ。

多くの人は同じ空間を使い、そして習慣化した動きを限られた空間の中で行っている。
自分がこの他に使える空間があるなどイメージすることができない。

しかし、空間がより使えることを知覚すると、自然に動きが起こる。

もちろん動きと空間は相互的だ。動く事で空間をより認識することができる。
ただ無理に動かされてても、雑く動いても空間を知覚できない。

そう同じような動きをしても、感じるか、感じないかで真逆の結果になる。
雑に動かされれば、自分の体を感じることはできないし、
空間の中を動いていたとしても、動かされている限り新たな空間を知覚することはない。

動かされているとうのはこの知覚のプロセスを邪魔をしている。
つまり動きを感じること、空間を認識することを奪っている。結果感じれないため悪循環になる。

病院や施設の患者さんにも同じことがいえる。
障害で動きが少なくなり、その結果周囲の空間に対する認識も少なくなる。
どんどん動きが少なくなると同時に相対的に使える空間も少なくなるのだ。

空間の認識が狭くなれば自然と動くこともその空間内で行われるようになる。
とても窮屈だ。不思議なことだが、動きを減ると本当に周囲の空間の認識も変化する。
そう人は空間を忘れていく。これは正常な人でも閉じこもると発生する。

逆に外へ出かけるとか、部屋から出ることで、自然と空間を認識する。
空間との本人との関係性を強めていけば、そこに自然に行くようになる。
それは自然に。例えばベッドから起きてトイレに行くぐらい自然に。

本人に認識の中で狭い世界ならばそれがすべてと思いその中で生きていこうとするだろうし、広い世界ならより自分が広範囲に動けることを知るだろう。

肩の動き一つとってもそうだ。自分が限界だと思った肩の位置はある意味、空間の限界でもある。
だから肩の限界の位置からゆっくりと丁寧に(痛めないようにして)他に動ける空間を探せば、以外に他の空間、もしからしたら限界だと思っていた位置以上に動くことができるかもしれない。そのときは体の内側の空間も上手く使っていることだろう。

それも一度認識してしまえば、自然に起こる。

そして自然に起こることに気づくことが大切だ。

自然に起こるという反応は脳と体が統合された時の質の高い反応だと思う。
自然に起こったことに気づくなということではなく、逆に自然に起こったことに気づきましょうという話。
無理に動かすと気づきをじゃまをするし、体の自然な反応を逆に抑制する。

無理な動きは多くの場合考えすて感じることをしていない動きとか、力が入りすぎて、逆に自然な動きを邪魔している。
つまり脳の知覚を邪魔していることが多い。感じることができ、そして知覚し、脳が変化するからこそ、自然な動きとして表出するのだ。感じない動きはこの逆になる。つまり感じないことで、脳が変化し、無理な動きとして表出する。いずれにしても脳は変化として学習するがまったく質の違うものになる。

だから探索という知覚を主役とした動きを使い、結果何が起こるか観察する。
そして自然に起こることを受け入れるのだ。そのような動きを許したとき、新たな気づきが生じる。また気づきも意識できるものから、意識しない気づきも存在すると思う。とにかく探索する動きをすれば、空間や体に対する認識が変わり、結果動きが変化する。この変化を援助者が上手くとらえれるようになれ、またその動きをつかってさらに展開することができる。

もちろんこれらの知覚は空間を直接感じるわけではなく、ほんらいは主に固有覚によって体の中の感覚や外側で動けるということを感じる。そして動きが生じた時、そこに空間があると認識する。

だから人の動きを手伝うとき、空間を認識することを手伝えばいいんじゃないかと思うこのごろ。

それは関節を動かして新しい空間を発見すること、社会的な新しい場所を発見することは本質的に変わらないように思える。

そのためにはまず自分の体を感じることが必要かもしれない。あるいは体を感じながら空間を広げることが必要なのかもしれない。その変はまた検討しよう。

かといってもいきなり広く認識することは難しい。動きが比較的少ない止まっているような姿勢(私たちは一定の姿勢をとっている時もその姿勢を保つため動きが発生している)からよりダイナミックな動きと広げていくことが現実的かもしれない。

言い換えると自分の場所を感じ、そこにある存在できる空間を認識し、そして少しずつより動きを感じながら、動ける空間を認識していく。つまりより少ないほとんど動いていない単調な動きから、少しずつ様々な動き、大きな動きや複雑な動きへとつなげていくことがいいかもしれない。自分の体の認識が先か、空間が先、どちらが先ではなく常に相互的に発達していくもんなのかなと。

これもあくまでも一つの考え方として。まだ考え中です。




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予後予測は患者さんの可能性を奪っている

06-04,2012

リハビリの世界には「予後予測」ということをよくする。
もしくはリハビリテーションゴールという言い方をしている。
患者さんの予後(到達できるゴール)を予測して、それにあわせてプラグラムを作っていきましょうという考え方だ。もしくは今の患者さんの状態に対してこのくらいのプログラムをすればこれぐらいの結果がでると予想することだ。

よく考えてみるとこの考え方は相当矛盾している。
根本的な事を忘れている。

「人は未来の事を予測できない」

何を当たりまえの事をいうが、人は未来を予測したい欲望があるみたいだ。

例えば株でもそうだ。
少し詳しい人なら知っているとおもうが、ファンダメンタル分析やテクニカル分析などのあらゆる高度な手法を用いて株の値上がり(あるいは値下がり)を予測する。
それで実際予測できると思っている人は多い。
そういう人がもし予測が外れたらどう思うか?
それは自分の勉強不足だったのだと思うだろう。

だからよりそういった分析手法を極めようとする。
そういう人はいつまでも現実をみれないので、その状態で株で儲けることができる人は少ないと思う。

ほんとにもうけようと思うなら、そういった手法を参考にはしつつ、現実的な状況の変化に適した方法で行動できるここが大切だろう。意外に思うかもしれないが、株は自分自身をしっかり見つめることが大切だという意見はほとんどの人が一致する。それは今の値動きに向き合っている自分自身をおろそかにしないということだろう。

これがまったく同じようにリハビリの世界にある。
色んな手法を使ってましてや株よりもより複雑な人という未来を予測しようとする。
だけど上手くいかないことも多い。そして間違っているのは自分の勉強不足だと思っている。
中にはそれで自信をなくしてしまっている人がいるのは非常にもったいない。


そもそも人が未来の事を予測することはできないのだ。
あなたは自分自身の未来でさえ予測できないのに、他人の未来なんてわからない。
いくら一般論を学んだとしても、目の前にいる人はそれぞれ違う。

大切なのは予測できないことを現実としてとらえ、「今」どうするかという発想だ。
そういう発想を持つことができないと、上手く現実に対応することができない。

例えば、ここまで回復するという予想は、その人の限界を決めることにもなる。
現状の医学では片麻痺とか、パーキンソンとか色々あるが、完全に理解しているわけではない。
わからないものに対してわかったつもりになっているだけだ。

予測するという考えの中に、その人だけの変化としてとらえている人が多い。
パーキンソン病は何年後かには動けないという予測を立てたとする。
実際その通りになった。
だからなんだというのだろう。

予測どおりだからそれでいいのか?
本人はそれで幸せなのか?

もしかしたら自分のアプローチが良いものであるならそうならない可能性だって大いにある。
実際、自分がアプローチすればそうならない、もしくはそれが遅くなる可能性は高くなると思うし自信はある。
パーキンソンを治せはできないが、パーキンソンだとしても上手く動けるよう学習することはできる。
それが機能的にいつまでもある程度筋の柔軟性を保つことができる。
少なくとも圧倒的に普通にアプローチするより変化は期待できる。

ほとんどの人はパーキンソン病の人に筋トレさせて、より体を固くさせている。
ストレッチをして伸張反射を誘発させている。
そんなことをすればより体を固くしている事を助けているだけだ。
より動けなくさせていることを促進させているだけだ。

だけど進行性の疾患で予後はこうなんですよ~と話せばほとんどせめられる事はない。
予後予測はある意味、セラピスト側のいい訳にもなっているんじゃないかと思う。

長々と書いたがまとめて言いたいのは

「予後を予測する行為は患者さんの可能性をつぶしている」

大切なのは予後を予測するのではなく、今の状態をしっかりとらえ「今できること」を精一杯していることではないだろうか。
患者さんの可能性をしっかり「今」みつめていく必要があるのじゃないだろうか。
もちろん進行性の疾患というのも現実だ。だからこそ、しっかり患者さんの今の可能性を見つけてほしいと思う。

※予後予測することは言い換えると目標を固定化しているとも言えます。固定化された目標にとらわれると現実がみえず、目標に振り回されてしまいます。今できることを一生懸命するというのは、常に変化をとらえ、その人にあった方向性を常に確認、修正しながら進めていく過程であると言えます。どんな目標を立てるかよりも、どのような過程で患者さんにかかわったか、そして自分がかかわった結果とどのように向き合っていくかのほうがよほど大切です。よりよいプロセスは自然とよりよい変化を生みます。つまりどんな目標を立てるか(どんな予後予測をたてるか)ばかり見ていてもあまり役には立ちません。どのように関わっていくかというプロセスを質のよいものにすれば、自然とよりよく柔軟に、より患者さんに役にたつものになるでしょう。「目標を立てる」「予後予測をする」という特別な事をしなくても、過程の中で自然に「セラピストの意図」として現れるものです。つまり過程の中で生まれるものですから、目標(意図と言った方が適切)はかかわりの中で生まれ柔軟に変化するということが大切です。目標を固定化して、そこに向かうことは大切な「過程」をおろそかにしています。


リハビリゴールを設定しないならどう関わればいいのか混乱する人もしるかもしれない(正確に言うなら退院という関われる時間内でたどりついたのがゴールだと言ってもいいが、患者さんからするとそれはゴールではなく、新たな生活の始まりでも、そこからの方が挑戦なのだと思う)

大切なのはより患者さんに役にたつかどうかで、リハビリの流れにこだわるかどうかではないからだ。そしてある意味慣れた習慣を変えるには混乱が必要なのだ。混乱しながら新しい考えを試し、理解していくものだ。

予測なんてしなくても患者さんにできるだけ精一杯かかわって、できるだけ機能を上げるお手伝いをして、そして退院日に近づくとき精一杯あがった機能でどう生活していくを考えたほうが、予測して決めただけの状態にあわせるよりよほど現実的だ。

一方的に能力がここまでと他人に判断される態度自体が患者さん受け身にさせている。それよりも患者さんと一緒によりよくなるにはどうしらいいのか考えていく方がよほど、患者さんは自分の体に向き合い元気になる可能性は高いだろう。


人生はリハビリのゴールになったから終了ではない。人生は続いていくし、変化していく。だからこそその時、その時の「今」をとらえよりよく生きていくことを手伝える人が増えれば素敵だと思う。

そんなセラピストが増えないかなあと実は願っている。少なくとも僕の後輩は気づいてきているようだ。

※これはリハビリやケアに関しての意見です。手術などのアプローチには予後を予測する必要はあります。しかし手術が終わった直後から、予後を予測するよりも今の状態を見る方が有効な事が多いと思ってます。
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機能的な動き=「筋力(構造)」×「使い方」

05-05,2012

LCMACホームページより抜粋。
最近地味にホームページをリニューアルしました。
この内容に付け足してます。

人は加齢や障害と共に動きにくい人が増えますが、体にマヒがあることや、筋力が低下していることと動けないことは必ずしも一致しません。むしろ筋力があっても体の「使い方」が良くないと動くことはできません。もしくはすごくぎこちないものになります。

逆にいえば筋力の低下やマヒがあっても体の「使い方」を工夫すれば動くことができるのです。効率のよい動きはほとんど筋力を必要としません。筋力があっても無理に動けば、その筋力は自分を動かす事だけに使われず、自分自身を痛めてしまいます。これを読んでいる皆さんも腰や肩など痛めてはいませんか?それも自分の体の使い方が上手くないのです。

医療は福祉の現場では多くの場合動けない問題が起これば筋力が低下していると分析されました。特にマヒ等がない場合はその傾向が強いように思います。しかし体の「使い方」が問題な場合、筋力があっても使い方を学習しなければよりよく動くことはできません。「使い方」を教えずに鍛えられた筋力は自分を痛める要因を増やすこになりかねません。私はセラピストとして老人や障害をもっておられる方に関わってきましたが、動けない理由で今まで疾患や筋力の問題にされていた人も 体の「使い方」を変えることで今までできないような動きでさえできることも少なくありません。マヒがあってもなくても体がよりよく動けるように使い方を学ぶことは必要です。

(ここからつけたし)

機能的な動きは、筋力と使い方であわらすことができます。
つまりこのような関係です。

機能的な動き=「筋力」×「使い方」です。
※話の流れ上、筋力にしていますが、ここは筋力も含めた「体の構造」してとらえる方が適切でしょう。

いくらあふれんばかりの筋力があっても、使い方が上手くなければ動くことはできません。
つまり機能的な動き=「筋力 1000」×「使い方 0」は0です。

ちょうど高性能のロボット(ガンダムみたいな)でも操作ができない人が乗り込むと、動けないことに似ています。
逆に低性能のロボットでもパイロットが優秀だと、ある程度機体の機能をカバーできます。

テレビゲームで、サッカーや野球をしていて弱いチームを使っても、操作が上手い人だと優勝してしまうのと同じです。
これは機能的な動き=「筋力10」×「使い方 100」は1000です。
※特に数字にする意味はありません。わかりやく表現するためだけに使っています。

体は老化とともに、体の性能は低下します。だけども人は年をとっても学習することができます。
つまり学習をすることで自分の中のパイロットを優秀にすることはできるのです。

年寄りはいくら筋トレしても筋力を20代のころのように戻るひとはいません。筋力がついてもやはりわずかです。100歳の人が走り回っていれば奇跡です。だからそういうような人がいると珍しがられるのでしょう。ですから使い方を変えない限り動くことはできません。鍛えて筋力をつくのを待つのだけではなく、今ある体をより効率的に使うこともする方が現実的です。また筋力をつけようにも、使い方を犠牲にしている場合が少なくありません。

上手くアプローチすると90歳で外出した事を忘れるぐらい記憶障害があっても週1回×4回程度で体の使い方を学習しスムーズに立ち上がれるようになってました。今日リハをした人は体全身が固かったのと、浮腫、軽度の尖足で、なんとか両手を支えてもらって歩く事ができる状態でしたが、体分けて扱うこと、体重を上手くのせる事を学習することでわずかに胸郭に片手で触れるだけでほぼ独歩で歩けるようになってました。一回のかかわりでです。この人も家族さんは認知症だと話されましが、最後には大きく驚かれてました。筋トレは一切していません。これらはすべて体の学習を結果です。

よほどの事がない限り、適切に行えば人は学習できるのです。
「使い方」に注目すれば、機能的に動く事は可能です。


LCMACのホームページ





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あきらめのICF

04-24,2012

ICFは身心機能がどうにもならんから、活動がよくなることに視点を置いたあきらめの概念ではありません。

人を全体的にとらえることで、心身機能もより機能的に使うことができる考え方です。
活動の質が良くなる事で心身面がよりよくなることも、また環境が変わることで、心身面の機能の向上は充分期待できます。

つまりICFとは人をロボットのようにとらえた部分的なアプローチから全体的なアプローチへ以降の象徴です。

ここを勘違いするとなんとなく福祉用具を使って、活動ができばいいなどと安易に考えてしまいます。それが結局無理な動作の連続で利用者さんや患者さんを弱らせることも考えられます。

また無理やりにでもさせる活動になってしまいます。させられるADL、させられるレクリエーションも、一見活動ができれているように見えますが、意欲を奪うだけです。

リハビリでも、自分のアプローチの責任を進行性の疾患や年齢のせいにしてしてしまって、「維持」という都合のよい言葉の上で行っている場合が多いよう思います。その人の体にあった使い方を伝え、機能を再構成することはなく、ただ単に同じ事を何度もしています。そしてその人の可能性を発見することはなくなります。

これらは部分的な理解をもとに生じる悲劇です。ICFは今までアプローチが部分的な理解で行っていことに気づかせてくれる道具です。どうかあきらめのICFとして使わないでください。

全体的なアプローチをICFをもとにやってみませんか?



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その人らしさとは何か

04-23,2012

その人らしいというと、普通ある限られたイメージをイメージすると思う。

しかしその人らしさを援助するということは「限られたイメージ」に近づけるのとは全然違うのだ。

らしさなんてものは他人が勝手に決めつけたイメージにしかすぎない。

その限られたイメージで人を見ると、その人の他にある素敵な部分を発見することを邪魔してしまう。

また関われる側としても、限られたイメージで接せられると、非常に窮屈だ。あなたはこういう人ですねと最初からラベルを貼られるように扱われると、無意識的に何か変わることを許されないような、もしくは少し無理してでもそのラベルにあわせようとしてしまう。

その人らしさを援助するということは、どんなあなたでもあなたですよ。という事を援助することだ。

そうする事で人は可能性を閉じることなく、新しい自分を発見することができる。

けっして人を限られたイメージにとらわれる必要はない。

だから、目の間にケアを必要としている人に対して、昔の情報になんてこだわりすぎる必要はない。

もちろん参考にするのはかまわない。ただ昔好きだった物が、今はそうでもないことも多いのではないかと思う。

人は変わるのだから。

今、色々試してその人の可能性を広げていけばいいんじゃないか。そしたら昔以上の物が見つかるかもしれない。

これはそっくり実は自分らしさにも言える
ついでに昔書いた記事もよかったら見てほしい。

自分らしさとは何か

自分らしさとは何か(別の記事)


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